ペキン(英語表記)Běi jīng

改訂新版 世界大百科事典 「ペキン」の意味・わかりやすい解説

ペキン (北京)
Běi jīng

中華人民共和国の首都。中国共産党中央委員会の所在地。上海,天津,重慶とともに国の直轄市で,10市轄区8県を管轄する。燕京,北平ともいわれた。面積1万6800km2,人口1423万(2002)。華北平原の北端,河北省の中部北寄りに位置する。華北地区と東北地区とを結ぶ要点に当たり,西には西山(太行山脈の東北への延長部分),東に燕山,北西には軍都山(南口山脈ともいう)の諸山脈が連なり,南東には永定河と潮白河の両水系による沖積平野が開けている。古い北京の町は,永定河の扇状地に発達した。気候は温帯大陸性季節風型で,夏季は炎熱多雨,冬季は寒冷乾燥,春は北からの〈蒙古風〉が黄塵をまき散らすが,秋の9,10両月は青天が続き,もっとも快適な時節である。気温が高いのは7月で平均26.1℃,最高は42.6℃,低いのは1月で平均-4.7℃,最低は-22.9℃に達する。降雨量は華北地区ではもっとも多く,平均637mmで,その74%までが6~8月の3ヵ月に集中している。しかも,降雨量が年によって一定せず,1974年10月から75年5月上旬まで7ヵ月余りの間,北京全市を合わせてわずか23mmという極端な例もあった。したがって,河川は水量の差が大きく水害,干害ともに激しかったので,人民共和国の成立後,官庁ダム(永定河上流),密雲ダム(潮白河上流),十三陵ダム(温楡河上流)などを作って,灌漑その他の用水確保と水害防止とを図っている。

 旧市街の南西50kmの周口店(房山県に所属)は北京原人の化石発見地として有名で,当地には約50万年前すでに人類が生活していたことが明らかとなった。さらにその付近からは洪積世の末期,約10万年前の山頂洞人の遺跡が発見され,これらが今日の中国人の祖先となったと考えられている。時代を下ると,中国史上の二大土木工事と称せられている万里の長城大運河とは,不思議にも北京と密接な関係がある。北京は古くから東北地区に通ずる軍事的要地であったから,遊牧民族の侵入を防ぐため,その北方に万里の長城が築かれ,南方から軍需物資を輸送する目的で大運河をここまで引いてきた。中国全体の首都となると,物資を充実するために大運河はいよいよ整備され,国都防衛の必要から長城はますます堅固に築かれたのである。

北京は周代の初め,前12世紀から燕(えん)の都として薊(けい)の名で史上にあらわれる。戦国時代には燕の上都(下都は易(えき)県にあった)となり,華北地区の代表的都市であった。その位置は今日の北京旧市街の南西に当たるものと考えられる。燕国は前222年に秦に滅ぼされ,国都付近は薊県として上谷郡に属したが,薊県という名とその位置は引き続き五代の初め(10世紀初め)まで変わらなかった。秦が滅ぶと漢代には広陽郡の中心となり,とくに後漢では幽州刺史が駐在した。三国時代の魏や西晋では燕国の行政中心となり,五胡十六国時代には前燕が一時ここを都と定めたが,後魏では幽州燕郡と称した。隋に至って涿郡(たくぐん)と改め,唐代には幽州范陽郡といったのである。8世紀には安禄山や史思明がここを根拠として唐朝に反乱を起こし,唐末には軍閥の劉仁恭父子が独立して燕国を建てた。

五代になると後晋の石敬瑭(せきけいとう)が建国に際し,遼国(契丹)の援助を受けた返礼として,燕(幽)雲十六州(今日の北京市と大同市を含む河北・山西両省の北部)を遼国に譲渡した。遼では幽州を南京(五京の一つ)または燕京析津(せきしん)府と名づけ,薊県を析津・宛平(えんぺい)の2県に分けたので,1000年余りも続いた薊県の名はついになくなったのである。遼・金(女真)両王朝の交替のとき,ここは一時的に宋の領土となり燕山府といわれたが,まもなく金の領有に帰し,12世紀には金の国都となって中都大興府と称せられた。このとき旧城郭が拡張され(1辺約5kmの方形),その中央に皇城,東北郊外(今日の北海公園)に離宮(西苑)が作られた。1215年,中都はモンゴル族のために陥落して徹底的に破壊されたが,67年(至元4)に元の世祖フビライは東北郊の離宮を中心として新しい都城を経営し,72年にはここを都と定めて大都と名づけたのである。

 新都は1293年に完成し,宋が亡ぶと名実ともに全中国を支配する政治中心となった。地方制度上では大都路がおかれ,中書省に直属して付近の州県を管轄した。大都の規模は南北がやや長い方形で,周囲は28.6km,その中央南寄りに皇城が作られ,その中に宮城があった。都城の城壁は,その基部の厚さ約24m,高さ16m,頂上の厚さ約8mということが,近年の調査によって明らかにされている。この城壁はのち明の初めに,北部が2km余り縮小され,南部が約0.5km拡張されて,明・清時代の内城となった。北の部分は今もなお元の土城の名で残っており,南では今の東・西長安街にその痕跡が認められる。ところで,元の大都城はモンゴル族王朝の作ったものであるが,その設計は儒教経典である《周礼(しゆらい)》の〈考工記〉に記載された中国の伝統的な理想にもとづいて行われた。つまり国都は9里四方,1辺に3門が開かれ,内には東西・南北各9条の道路を通じ,左側(東)には祖(太廟),右側(西)には社(社稷壇(しやしよくだん))を設け,南面には朝廷,北面には市場をおくという形式である。中国古来の都城はどれもこのような考えによって作られていないのに,大都だけは《周礼》と符合し,都城,皇城,宮城の正門を貫く南北線をもととして対称的に設計されている。しかも,この南北線上,皇城の北において都城の幾何学的中心を明示する石碑が立てられていたという。大街は道幅が約25mで,これによって都城内部は50の坊という区画に分けられていた。

 普通には,大都の人戸は10万,人口は約50万と称され(1270年の統計では戸数14万,人口約40万),中国だけではなく,アジアから東ヨーロッパにわたるモンゴル大帝国の首都として,その繁栄は西洋にまで知られた。かのマルコ・ポーロは大都をカンバリクハーンの都)といい,宮殿の豪華なことや城内の整備されたありさまをくわしく伝えている。元の歴代皇帝は大都を本拠とするが,春から夏にかけての半年間は避暑のため上都開平府(今日の内モルゴル自治区のドロン・ノール)で過ごすのが常であった。大都に対する給水源は二つあった。一つは北西から高梁河を城内に導入して積水潭(せきすいたん)(今日よりもその面積ははるかに大きかった)に蓄え,通州・北京間に開かれた通恵河をここへ連絡させ輸送船の終着点としたので,その付近は商業地として栄えた。いま一つはやはり北西の玉泉山から導かれた金水河で,高梁河の南で城内に入れて,宮苑の太液池(たいえきち)に蓄え,もっぱら宮城の用水に供した。

明は元を滅ぼすと金陵(今日の南京)を都とし,大都を北平と改めてもとの宮殿は一部を除いてほとんど破壊してしまった。城壁の北部が縮小されたのもそのときで,通恵河によって積水潭まで達した輸送船も南の城壁外までしか来なくなって,市況は一時すこぶる衰微したのである。しかし,成祖(永楽帝)が帝位につくと,自分が燕王だったときの旧居だというので,初めはここを行在所と称し,1421年(永楽19)に至りついに国都と定め〈北京〉と称した。これに先立って大規模な宮殿を造営するとともに,旧城壁の南部を0.5kmばかり拡張して官庁区域を作った。城壁は三重からなり,もっとも内部の城壁が周囲3kmの宮城(紫禁城)で城門は八つ,その外側にあるのが皇城で周囲は約9km,城門は九つ。皇城は宮苑のほか官庁と官員住宅の所在地である。もっとも外側が京城で,周囲23km余,城壁の高さは12m,9門(南3,東・西・北各2)が開かれ,外には城濠がめぐらされた。

 以上はだいたいは元の大都を基礎にして築かれたのであるが,明の中期以後になり城外南部に市街が発展して人口が増加したので,これを保護するためと,いま一つはモンゴル族の侵入を防衛する目的で外城が増築された。1553年(嘉靖32)から11年間かかって完成され,全長14km,高さは5~7mばかりで,城門は七つ。初めの計画では四周に築くはずであったが,財政不足のため南の部分だけで終わってしまった。もとは南郊にあった天壇や先農壇は,そのため外城の中に取り囲まれたわけである。その結果,内城・外城という区別が生じたのであって,内外城を合わせた面積は62km2。城壁は元代には土城だったようで,表裏とも煉瓦で被覆されるようになったのは明代からである。内外城とも城門にはそれぞれアーチ型の門口一つを開き,その上にはだいたい3層の楼閣を構え,外側に甕城(おうじよう)を築いて箭楼(せんろう)を設け,城壁の四隅には角楼を作った。これらの設備は明代に完成し,清代までほとんどそのまま受けつがれた。内外城を通じ城内を東西に分ける中央線は全長8kmに及び,外城の正南に当たる永定門から北に向かうと,内城の正南門である正陽門(前門)に至り,大明門(清代の大清門,中華民国では中華門)をへて御道(ぎよどう)を通り,皇城の正南に当たる承天門(天安門)に達する。ここからさらに北に進むと東に太廟,西に社稷壇があり,端門をへて宮城の正門である午門に至るのである。

 宮城内には三大殿(太和殿・中和殿・保和殿),後三宮(乾清宮・交泰殿・坤寧宮)が南北に並び,その北に欽安殿があり,宮城の正北門である神武門を出ると景山に対面する。景山は北京内城の中央に当たり,かつ最高所でもある。その北には皇城の正北に当たる地安門(後門)があり,さらに北には元の大都の中心を占めた鐘楼と鼓楼とが立っている。明代の北京は万暦年間(1573-1619)に最盛期を迎え,人戸は10万に近く人口は60万を超えたことと思われる。

 1644年(順治1)に明に代わって清がここを都と定めたとき,内城はもっぱら八旗兵(満・蒙・漢)とその家族の居住地とせられ,漢人は商人はもちろん官吏も居住することを許されず,ことごとく外城に移住させられた。西洋人が北京内城をタタール・シティTatar City(韃靼(だつたん)城,満州城),外城をチャイニーズ・シティChinese City(漢城)といったのは,そのためであると考えられる。漢人の強制移住によって,外城が急速に発展したのはいうまでもない。しかし,このような市民の便利を無視した制度が永続するはずはなく,たびたびの禁令にもかかわらず,その原則はしだいに崩れていった。ところで,内城は中央に皇城が存在するため東と西とに分断され,地域的な特徴が顕著であった。北部は王府が散在して市民の住宅は少なく,皇城の両側に当たる東・西四牌楼(パイロウ)付近は東西の代表的市場の所在地であり,外城では正陽門外の東部が手工業区,西部が商業区として繁栄していた。街路は中国古来の伝統に従って東西・南北の碁盤目に通じ,要所には牌楼を立てて街路を区切る標識とし,あるいは風景の単調さを破るための装飾とした。大街に囲まれた区画内には小巷(胡同といわれるものが多い)を通じ,市民の住宅が門を連ねていたのである。

 北京は行政的には明・清時代を通じ,順天府がおかれて20余の州県を管轄したが,城内は大興・宛平2県によって分割統治された。だいたいにおいて北西部が宛平県,南東部が大興県に所属する。治安警察のため明代には内城を中・東・西・北の4城,外城を南城として5城に分けた。清代では内外城ともにそれぞれ5城に分けたので,合わせて10城あったことになる。清代の北京にとって特記すべきは,皇城内の三海(北・中・南海)のほか,郊外に皇帝のための離宮や庭園がいくつも作られたことである。西山一帯は山水に恵まれ,遼・金時代からすでに離宮が存在したが,清では康煕帝のとき暢春(ちようしゆん)園,乾隆帝のとき円明・万春・長春の三園(併せて円明園と総称される),玉泉山静明園,香山静宜園,万寿山清漪(せいい)園の三山が作られた。なかでも円明園はもっとも広大壮麗で世界にその名を知られたが,1860年(咸豊10)英仏連合軍のために徹底的な破壊をこうむった。万寿山清漪園も同時に破壊されたが,1888年(光緒14)に至り西太后によって修復され,頤和(いわ)園と称して今日に及んでいる。

1911年,民国革命により清朝に代わって中華民国が成立してからも,北京は国都として存続し,28年南京に遷都するとともに北京は北平と改められた。49年に中国共産党軍が北平に入城し,10月人民共和国が成立すると国都となり,また北京と改名されたのである。人口は明・清両代を通じてもあまり増加せず,清末の1910年(宣統2)においても76万4000余であった。当時は内外城とも内部にはなお空地が多く,城外に向かって住宅地も発展しなかった。28年には内外城と四郊とを合わせた面積777km2をもって北平特別市とし,30年にはさらに中央直轄市に昇格させた。35年における人口は150余万,別に外国人居住者3000余と記録されている。

 人民共和国では52年以来,5回にわたる拡大と調整とをへて10市轄区(東城,西城,宣武,崇文,海淀,朝陽,豊台,門頭溝,石景山,燕山)と8県(昌平,延慶,懐柔,密雲,順義,平谷,通,大興)となり,市域面積は1万6800km2,人口は96年に1259万に達した。旧市街についていえば,皇城の城壁は中華民国時代にほとんど除去されたが,内外城の城壁や城濠は都市の近代化を妨げるものとして,1965年から全部取り払われ,そのあとは道路となっている。ただいくつかの城門だけが遺跡として保存されているにすぎない。天安門広場は初め11haだったが,1959年に拡張されて40haとなり,ここを中心として幅35mの大道が東西に伸び,旧市内を突破して東は通州,西は石景山に通じている。広場の南東部はもと東交民巷(とうこうみんこう)といった一角で,1900年(光緒26)に公使館区域に指定され,中国の支配から独立した治外法権の地であったが,今日ではそのような過去の痕跡は一掃されてしまった。

 旧市内の道路はもちろん改修され,市外に新設された公路(自動車路)と連結して交通網が整備された。市内電車は57年から無軌道電車が運転を開始し,66年にはすっかり路面電車に取って代わった。市民の公共交通機関は無軌道電車と乗合バスを主とするが,地下鉄もあって,69年に第1期工事の23kmが完成している。北京は国内交通の一中心で,すでに清末から列強資本による幹線鉄道の始発点であった。今日では北哈(北京~ハルビン),京滬(けいこ)(北京~上海),京包(北京~包頭(パオトー)),京広(北京~広州)の全国的な四大幹線のほか,京承(北京~承徳),京原(北京~原平),京坨(けいた)(北京~坨子頭),京通(昌平~通江),豊沙(豊台~沙城)などの諸線が集中し,ウランバートルを経てモスクワに至る国際列車も通じている。また国際飛行場は北東の順義県にあり(市内の中心部まで直線距離で約25km),58年の開設で面積は1100haであったが,近年の施設の拡張は著しい。

 産業方面では,北京はもともと完全な消費都市であったが,近年は軽工業ばかりでなく重工業も急速に発達して,新興の近代工業基地として発展している。その種類は鉄鋼,石炭,石油化学,電力,機械,化学,電子,紡績,製紙,印刷などに及び,生産額も年とともに増加した。その他,景泰藍(けいたいらん)(日本でいう七宝),玉器,象牙彫刻,じゅうたんなど伝統的な手工芸品の製造も盛んである。都市計画も産業の発展に応じ,旧市内には公害をともなわない軽工業を存置し,大規模な紡績・織物や各種の重工業は東・南郊外に建設するといった方針が立てられている。例えば,東郊には国営の綿紡績工場を集中させ,南西郊は石景山製鉄工場と発電工場を中心とし,京西炭鉱とともに長辛店,豊台一帯の機関車工場,鉄橋工場,さらには周口店に新設中の石油化学工場などを併せて重工業地帯とする計画がある。これらの工業地を衛星都市として発展させ,人口増加による北京旧市街の膨張を抑制する政策だという。

 北京は清代以来,全国的な文化・教育の中心で,中華民国になって国都が南京に移ってからも,ここは故都としてその地位を維持してきた。しかし,従前から継続している施設は故宮博物院(紫禁城),北京図書館くらいで,現在では天安門広場の東側に歴史博物館と革命博物館,西に人民大会堂が立ち,天安門内の東には労働人民文化宮(太廟),その他,旧市内には自然博物館や民族文化宮などが新設された。公園としては北海,中山(社稷壇),景山,天壇のほか陶然亭公園,西郊には旧市街に接して動物園,首都体育館,紫竹院公園などが連なっている。北西郊は文化教育区で,中国科学院を頂点とする多くの国立技術研究機構と,40に上る大学や高等学院がある。その中には北京大学(1898年創立,1952年に燕京大学の旧敷地である現在地に移転),清華大学,中国科学技術大学,北京師範大学,少数民族のための中央民族学院等を含み,面積は約44km2,科学院から東は理工科系,西は人文社会系の高等学院が占める。文化教育区の西には頤和園(万寿山)がある。

 名勝旧跡としてはこのほか,旧市内には古代天文儀器陳列館(古観象台),鐘楼,鼓楼,孔子廟,国子監,法源寺,白塔寺,広済寺,雍和宮,清真寺(イスラム教),市外では黄寺,白雲観(道教),天寧寺,五塔寺,大鐘寺,蘆溝橋,西山の八大処,碧雲寺,臥仏寺,戒台寺,潭柘(たんしや)寺などすこぶる多い。さらに遠くでは八達嶺の万里の長城(延慶県),居庸関,明の十三陵(定陵の地下宮殿を含む。以上昌平県),湯山温泉,周口店遺跡,石経山(以上房山県)などもみな北京直轄市の境域に属している。また旧市内にもどれば,書画骨董や文房具の町である琉璃厰(るりしよう),北京最大の百貨集中地として知られた東風市場(旧名は東安市場),あらゆる遊芸の中心,庶民の歓楽地である天橋の名を忘れることはできない。

 次に北京は1952年以来,直轄市として市域が拡張された結果,相当の農地を含むこととなり,76の人民公社が組織されている。58年から引き続き十三陵ダムと懐柔ダムをはじめ多くの小型ダムが建設され,それとともに温楡河,鳳河,港溝河など主要河川の水利工事も進んで,灌漑面積は著しく増大した。農業生産は近郊平原地帯では蔬菜を,遠郊平原地帯では穀物(小麦,トウモロコシ,米,コーリャン,豆類など)と綿花を主とし,さらに広大な山地帯では穀物のほかナツメ,梨など果樹の栽培,あるいは鴨の養殖なども行われている。北京近郊の蔬菜生産地として有名な四季青人民公社は,北京の蔬菜総消費量の7分の1を供給しているという。
故宮
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世界大百科事典(旧版)内のペキンの言及

【大都】より

…中国,元朝の首都。つづく明・清両朝および今日の北京の前身をなす。古来,北東辺の軍事都市としてあった北京の地は,10世紀以降,遼の副都(南京(なんけい)),金の国都(中都)となるに及んで華北の重要な政治拠点の位置を占めるにいたった(図)。…

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