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戦前の日本共産党における労働者出身の指導的幹部の1人。明治32年9月7日、千葉県市川町根本の畳職の家に生まれる。東京・亀戸(かめいど)町永峯(ながみね)セルロイド工場の職工となり労働運動に入る。1919年(大正8)2月11日新人会に入会、同亀戸分会をつくり、5月6日新人セルロイド工組合を組織、友愛会城東連合会に参加、20年最初のメーデーに参加した。22年7月創立の日本共産党に参加、同年10月南葛(なんかつ)労働協会を組織し、23年3月の党臨時大会に参加した。6月レフト(プロフィンテルン=国際赤色労働組合加盟を目ざす左派の労働運動組織)機関紙『労働組合』を創刊、署名人となった。6月5日の第一次共産党事件の検挙に連座し逮捕、起訴された。23年12月保釈出獄し、24年2月東京東部合同労組を組織し、4月日本労働総同盟に加盟し、総同盟戦闘化の先頭に立った。25年5月の総同盟分裂後、日本労働組合評議会の指導者となった。また共産主義ビューローの一員となり、26年12月第3回大会で中央委員となった。二七年テーゼ作成に参加し、その普及に努め、中央常任委員・組織部長となり、『赤旗』発刊に努力、28年(昭和3)2月の総選挙以後委員長となった。三・一五の弾圧では検挙を免れたが、同年10月6日、国際連絡の帰途、台湾の基隆(キールン)で官憲と交戦、自らの命を断った。
[犬丸義一]
『『渡辺政之輔著作集』(1962・日本共産党中央委員会出版局)』▽『及川恒夫著『日本共産党と渡辺政之輔』(1971・三一書房)』
労働運動家,また日本共産党の指導者。愛称〈渡政〉で知られる。千葉県市川に生まれ,東京亀戸の工場に勤めて労働運動に参加した。1922年,創立直後の日本共産党に入党,ただちに南葛労働協会(翌年,南葛労働会と改称)を組織して左翼労働組合の拠点を作った。25年,日本労働組合評議会(評議会)結成とともにそのリーダーとなり,共同印刷争議などの争議を指導した。23年には第1次共産党事件で投獄された。26年党中央委員に選出され,27年コミンテルンに招かれてモスクワに行き日本共産党の27年テーゼ作成に加わり,帰国後28年2月発刊の党機関誌《赤旗》に創刊の辞を執筆,その直後党中央委員長となった。労働者出身の理論家,組織者として注目されていたが,28年6月,上海でコミンテルン代表と会見した帰途,台湾で官憲に追われて自殺した。
執筆者:三宅 明正
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(有馬学)
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…1918年12月5日,吉野作造の弟子麻生久,赤松克麿,宮崎竜介らが新しい思想の伝達者,社会改造の担い手をめざして結成,翌19年2月には機関誌《デモクラシイ》を創刊した(1920年2月《先駆》,同年10月《同胞》と改題)。同月には東京亀戸の工場地帯に入り共産党指導者となる渡辺政之輔を中心とする分会を設立したのをはじめ,全国各地に支部を設けた。とくに全国の遊説オルグで各地の大学,高専での新思想による学生の組織化に力をつくし,22年11月の学生連合会結成の中心となって日本の学生運動を指導した。…
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