日本大百科全書(ニッポニカ) 「台湾」の意味・わかりやすい解説
台湾
たいわん / タイワン
中国南東部に位置する福建省の南東洋上約150キロメートルにある台湾島とその付属島嶼(とうしょ)からなる。面積約3万5981平方キロメートル(台湾島は3万5823平方キロメートル)、人口2278万5000(2006)。中華民国と称する。中国(中華人民共和国)は自国領土の一部であるとして台湾省とよぶ。別称フォルモサFormosa。
1945年8月15日、日本の第二次世界大戦敗戦で植民地統治が終了、台湾は中国国民党政権の支配下に入った。その後の国共内戦で共産党に敗れた国民党政権が1949年に大陸から台湾に撤退し、以来、台湾では国民党の一党独裁支配が続いた。だが1988年に李登輝(りとうき)が総統に就任して以降、民主化が加速。2000年3月の総統選挙では野党・民主進歩党の陳水扁(ちんすいへん)が当選し5月に総統に就任、国民党が台湾に政権を移して以来初めての政権交代が実現、半世紀以上にわたる国民党の長期政権に終止符が打たれた。
[劉 進 慶]
自然
福建省の南東150キロメートル、琉球(りゅうきゅう)諸島の南西200キロメートル、フィリピンの北350キロメートルに位置し、台湾島、澎湖(ほうこ)列島など79の島からなる。台湾島は南北約386キロメートル、東西は最広部で約144キロメートルあり、標高3000メートルを超す台湾山脈が南北に縦断して走り、ほぼ中央にある玉山(3997メートル)が最高峰である。山脈は本島の中央よりやや東に偏り、北端部は蘇澳(そおう)と花蓮(かれん)の間で大断崖(だんがい)をなして太平洋に臨み、付近には太魯閣(たろこ)峡谷など深い峡谷が発達する。西斜面には雪山(せつざん)山脈、阿里山(ありさん)山脈などの支脈が走り、東側に台東地溝帯を隔てて台東山脈が同じく南北に並走している。北部には高度1000メートル内外の大屯(だいとん)火山群があり、新北投(しんほくとう)、陽明山(ようめいさん)などの地に温泉の湧出(ゆうしゅつ)がみられる。また、北西部には桃園(とうえん)台地をはじめとする第三紀層、洪積層の台地が広がる。平地は西部に多く、北から南へ台北盆地、台中盆地、嘉南(かなん)平野、屏東(へいとう)平野などの沿海平野が開けているが、東部は山がちで平地は狭く、わずかに宜蘭(ぎらん)平野と狭長な台東地溝帯があるのみである。河川も地形の関係上、淡水(たんすい)河、濁水(だくすい)渓、高屏(こうへい)渓(下淡水渓)などの大河の多くは西部を流れ、台湾海峡に注ぐ。河川は概して短く幅が狭いため、流れが急で、水量が少なく、帯砂率が高いのが特徴である。西海岸は概して遠浅で砂丘の発達もみられるが、形状はいたって単調である。これに対し東海岸は山がすぐ海に臨み、変化が比較的多い。
気候は温暖で、台湾島の中央に北回帰線が通り、熱帯と亜熱帯圏に属する。北部は夏乾冬雨、年平均気温22℃、冬は15℃以下に下がるが、中南部は夏雨冬乾、平均24℃、冬も18℃以下にはならず、常夏のいわれがある。平原から山頂との間に熱、温、寒、三つの気温帯があり、平地の夏は長く、冬は短い。年降水量は全島を通じて1700ミリメートル以上、中部山地は平均3000ミリメートル、澎湖列島は雨が少なく約1000ミリメートルである。夏から秋にかけて台風が多く、秋から冬の北東季節風はかなり強い。植物は、平地ではアコウに代表される亜熱帯植物が至る所に繁茂し、四季緑に覆われ、山地では標高差により熱帯林から温帯林まで種類がきわめて豊富で、全島では広葉樹林62%、針葉樹林22%、針広葉混合樹林9%、竹林7%の構成になっている。中部山岳地は多種のチョウと昆虫の生息地として世界的に知られる。
[劉 進 慶]
地誌
台湾の開発は、中国大陸の福建省からの移民により推し進められ、西海岸の南部からしだいに中部、北部へと広がる推移をたどった。農業の開発が中心で、農産物産地が地方に集散し、対外貿易を中継する海港に都市が形成され、商業の発達をみた。1930年代から工業化が進み、現在では北部と南部に二大工業地帯が形成されている。北部は首都台北やハイテク・コンピュータ産業の集積地である新竹(しんちく)科学工業園区、桃園などを中心とするハイテク・コンピュータ産業地帯であるのに対し、南部は高雄(たかお)を中心に、岡山(こうざん)、鳳山(ほうざん)地域を含む重化学工業地帯となっている。中部と南部は豊かな盆地と平野にはぐくまれた穀倉地帯であるが、農業のみでなく、近年は工業の進出が著しく、急速に変容している。東部は平野が狭く、地域開発が西部に比べて大幅に立ち後れている。そのほか山間地にはおもに少数民族が居住し、農牧業を営んでいる。
[劉 進 慶]
歴史
台湾は漢民族により発見され、7世紀初頭、隋(ずい)の時代に台湾の偵察征略が試みられている。元(げん)代末期の1360年、元王朝は澎湖島に巡検司を置き、福建省同安県に隷属させた。17世紀に入ると台湾はヨーロッパ列強の角逐の舞台となり、オランダが1622年に澎湖島、1624年に南部台湾を占領した。またスペインは1626年に北部のキールン、淡水を占拠したが、1642年にオランダ軍の攻撃を受けて台湾から撤退した。明(みん)王朝が滅びたのち、1661年に明の遺臣鄭成功(ていせいこう)がオランダ人を台湾から駆逐して、ここを抗清復明(こうしんふくみん)の根拠地とした。1683年、清(しん)王朝は施浪(しろう)を派遣して鄭軍を降(くだ)し、台湾を中国の版図(はんと)に収め、行政的には福建省に隷属させ、台南に台湾府を置いた。このあとしばらく大陸からの渡航を厳しく制限したが、18世紀後半から移住民の渡来が激増し、開拓が急速に進んだ。アヘン戦争後、1858年の天津(てんしん)条約により南北両端の台南と淡水港の門戸が開放され、1860年代以降、茶、砂糖、樟脳(しょうのう)など農産物の輸出が増加するに伴い、台湾はふたたびヨーロッパ列強の虎視(こし)するところとなった。日本は台湾南部琅(ろうきょう)に漂着した琉球人を住民が殺害したことを理由に、1874年台湾に出兵した。その後、1894~1895年の日清戦争の結果、台湾は日本に割譲され、以後51年間、日本の植民地統治下に置かれた。この間、島民の抵抗は激しく、台湾民主国建国運動、西来庵事件(1915)、台湾議会設置運動、霧社(むしゃ)事件(1930)など、たび重なる抗日運動がみられた。日本は台湾総督府を置き、近代的諸制度を導入し、日本の食糧供給地として米糖農業の開発を推し進めた。1930年代以降、日本軍国主義の対外膨張期に、言語、風習、信仰、意識、氏名の日本化を目ざす皇民化運動と南進軍需工業化政策が強行され、台湾社会は大きく変容させられた。
1945年、日本敗戦の結果、台湾はふたたび中国の版図に復帰し、台湾省として再出発する。しかし中国の国共内戦が再燃し、1949年の本土における中華人民共和国の成立と蒋介石(しょうかいせき)政権の台湾への撤退により、台湾はふたたび中国本土と分断した。この間、150万ないし200万ともいわれる官吏、軍人、商工業者とそれらの家族が大陸から台湾に流入し、それ以前とは異なる新たな政治経済社会を形成することとなった。
[劉 進 慶]
政治
国民党政権は、台湾で中華民国政府の形態を維持し、青天白日旗の国旗と国民党の党歌を国歌として使用してきた。このため中華民国としての台湾は、近年まで反共と大陸復帰を国是とし、大陸本土の中華人民共和国と厳しく対立してきた。国家体制は、1947年大陸で制定された中華民国憲法を変則的に適用している。同憲法による本来の中華民国は、三民主義(民族独立、民権伸長、民生安定)に基づく民主共和国であり、国家機構は国民大会、総統、五院、中央政府と地方政府などにより構成される。国民大会は各地域、団体ごとに選出された国民代表により構成され、憲法を審議し、総統を選出するが、立法機関ではない。総統は元首として国家を代表し、国家の重要事項を決定し、その下に行政、立法、司法、考試、監察の五院を置く。行政院は内閣、院長は首相にあたり、その下に各部局(省庁)を置いて中央政府を構成する。立法院は議会にあたり、委員は各地域、団体から選出し、院長(議長)は委員の互選による。地方政府は省(市)と県の二級に分かれ、各レベルに省(市)議会、県議会があり、原則的には地方自治制度をとっている。しかしながら、国共内戦と冷戦下で非常時体制がとられたため、憲法機能は実質的に停止状態にあり、前述の政治制度は変則的にしか存在しない。
実際には、台湾にはほぼ同一地域に中央レベルとしての中華民国政府と地方自治体レベルとしての台湾省政府の二重の政府が存在してきた。中華民国政府は大陸を含めた中国全体を統治し、台湾省政府は台湾島および周辺諸島を統治するという「建前」のためである。この過程で台北と高雄が中央政府の直轄市に改められ、省政府の下に大陸島嶼(とうしょ)の金門、馬祖を含めた18の県、台中、台南など五つの省轄市がある。
1975年、蒋介石が死去、権力は長男の蒋経国(しょうけいこく)に引き継がれた。この蒋一族と国民党一党独裁に対する民衆の不満は、1947年に起きた二・二八民衆蜂起(ほうき)事件の大量殺戮(さつりく)に対する怨念(おんねん)と相まってかなり根深い。したがって党外反政府勢力や独立運動の動きが根強く、1986年、最初の野党民主進歩党が禁令を冒(おか)して結成された。1987年、冷戦の溶解を受けて38年間続いた戒厳令が解除され、大陸への親族訪問や新聞、結党の規制が矢つぎばやに解禁され、民主化の走りとなる。そして1988年、蒋経国の死去を受けて李登輝(りとうき)政権が誕生し、民主化の動きが加速された。1990年代初頭、憲法臨時条項が廃棄され、40余年続いた非常時体制が終結、国会議員の全面改選と省、直轄市の首長民選も行われた。1996年3月には初の総統直接選挙が実施され、李登輝総統が初の民選総統に選出された。1997年7月に憲法改正案が採択され、台湾省政府の権限と組織の簡素化(実質的な廃止)、総統権限の拡大など、台湾の政治的実態に即した国家体制の再編が推し進められることになった。そして1998年12月、台湾省長と台湾省議会議員の任期が終了、新たに中央政府が任命した省主席、省政府委員らによる新しい省政府が発足した。また、1999年7月には李登輝総統が、中国と台湾の関係を「特殊な国と国との関係である」と発言、このいわゆる「二国論」発言に、中国は激しく反発した。さらに2000年3月の総統選挙では、中国から「独立派」と目されていた民主進歩党の陳水扁が当選(2004年再選)、半世紀以上にわたる国民党の長期単独政権時代に幕が下りた。なお、国民党を離脱し無所属で総統選挙に出馬した宋楚瑜(そうそゆ)が、選挙直後に新党・親民党(しんみんとう)を発足させたことで国民党は分裂、台湾政界は主要3党体制に移行しつつある。
この一連の動きに対し、中国大陸は一国両制方式による平和統一を呼びかけると同時に、台湾独立に対し武力行使による阻止をも辞さない姿勢を示している。大陸との統合を拒む台湾は、満20歳の男子に義務兵役制(兵役期限1年8か月)を採用し、総兵力約29万を擁し、空軍に力点を置き、アメリカからの武器供与を支えとして、中国本土からの攻略に備えることを国防の基本政策としている。1971年国連から脱退し、2006年末現在、国交をもつ国が24にすぎず、孤立感を深めているが、民間レベルで実務関係を維持している国は日本を含めて100か国以上ある。
[劉 進 慶]
産業・経済
台湾は、歴史的に中国の辺境社会として開発の潜在力をもち、清末から輸出指向的農業の発展がみられた。日本統治時代においてもサトウキビと米を中心とする農業の急速な発展が続き、1930年代には軍需的工業化を経験した。第二次世界大戦直後は一時期、経済が混乱したが、1950年代からアメリカの援助と砂糖と米の輸出に支えられて輸入代替工業が発展し、1960年代以降、外資導入による輸出指向工業化を推進し、持続的な高度成長を遂げてきた。
農業は、豊富な雨量、温暖な気候と整備された水利灌漑(かんがい)のもとで、多毛作による土地の高度利用が行われている。米、サトウキビ、サツマイモ、豆類のほか、バナナ、パイナップルなど多くの園芸作物やエビ、ウナギ、ブタの養殖が盛んである。食糧は、米を自給できるが、人口増加と消費の多様化により、小麦と大豆を大量に輸入し、全体としては食糧輸入国になっている。耕地面積は約90万ヘクタールで、総面積の24%を占め、農業人口は総人口の17%に当たる。森林面積は全島の約50%を占め、かつては良材を多く産出したが、森林資源保存のため生産が激減している。水産は、従来近海漁業が中心であったが、近年遠洋と養殖漁業の発展により安定した成長を遂げている。しかしながら農林水産業の生産は、工業の相対的発展により、国内総生産(GDP)に占める割合が3%まで下がり、国民経済における地位が著しく低下している。
工業は1960年代以降、輸出向工業化が急速に進み、工業生産高と就業人口がともに増大している。この間、主として紡績、家電、電子、プラスチック製品、雑貨などの労働集約的輸出加工業が成長をリードしたが、1970年代から鉄鋼、石油化学、造船などの重化学工業化が推進され、近年は機械、電子・情報機器産業が成長、コンピュータや半導体などが主力輸出品となっている。産業構造は官営が基幹産業を握り、外資を含む民営が消費財や輸出産業を担うという二重構造をなしている。1990年代、官営企業の民営化が進み、産業全体が大きな転換期を迎えている。
対外貿易は年間3500億ドルを上回り、国民総生産(GNP)に近い規模になっている。主要な輸出品は電子・電気製品、通信機器、紡績などであるのに対し、輸入品は電子・電気製品、機械設備、化学品などである。貿易相手国は日本とアメリカおよび香港(ホンコン)を中継とする中国大陸が中心で、対日赤字と対アメリカ・香港黒字が構造的に形成されているが、貿易全体では黒字基調である。1980年代後半から海外投資が急増し、資本輸出国に転身している。外貨準備高は2006年現在約2500億ドルに達し、為替(かわせ)レートもきわめて安定している。
財政における歳出規模は国民総生産の4分の1を占める。このうち中央政府が全体の約3分の2、地方政府が約3分の1の割合になっており、中央歳出の3分の2が行政・国防費で占められて、近年まで軍事財政の色が強かった。金融機関は中央銀行を頂点に34の都市銀行、8の中小企業銀行、73の信用組合、285の農協信用部、54の信託投資会社および各地の郵便貯蓄局からなるピラミッド構造ができている。このほか貿易と国際金融を促進するため59の外国銀行を誘致しているのが特徴である。通貨は新台幣で単位は元、物価は比較的安定している。
産業の発展に伴い、交通の整備が進み、陸運では道路の充実に力点が置かれ、南北を貫通する高速道路が完成している。海運は既存のキールン、高雄、花蓮の3港のほかに、新たに台中港と東部の蘇澳(そおう)港が開港された。空港は中正(桃園)、高雄の二つの国際空港が世界各地と結び、ほかに大小15のローカル空港がある。1999年3月には台北と高雄を約90分で結ぶ高速鉄道が着工され、2007年に開業している。通信事業も発達しており、郵便サービスの能率が高く、電話の使用が普及している。観光業では、島内に数多くの観光地があり、北部では台北近郊の故宮(こきゅう)博物院、陽明山(ようめいざん)温泉、新北投(しんほくとう)温泉、烏来(うらい)、石門ダム、中部は山中の湖水を誇る日月潭(じつげつたん)、阿里山(ありさん)、南部は台南の史跡、台湾最南端の墾丁(こんてい)(熱帯植物)公園などが有名で、観光施設も整備されている。
台湾は農林資源が豊かであるが、その他の資源に乏しく、エネルギーの大部分を輸入石油に依存しており、近年、原子力発電の開発に力を入れている。しかし工業化による環境汚染が進んだことで、保護対策が課題となっており、環境意識も高まりをみせている。また、近い将来香港と並ぶ国際海運・貿易・金融センターの形成を目ざしている。
[劉 進 慶]
社会・文化
台湾の住民は98%の漢族と2%の山地同胞とよばれる先住の少数民族で構成されている。漢族のうち、戦前から住み着いた本省人が85%、戦後に渡来した外省人が15%である。外省人は大陸の各省からきているが、本省人は福建省からきた福佬(ふくろう)系が本省人全体の85%、広東(カントン)省からきた客家(ハッカ)系が15%を占める。他の民族はタイヤル、ブヌン、ツォウ、アミなど9種族に分けられるが、主としてマレー族、ポリネシア族である。歴史的には移民の過程で先住の民族と漢族との闘争、福佬系と客家系の対立があった。また第二次世界大戦後は政治的に本省人と外省人の対立感情が根深く存在してきたが、これらの対立は時とともに緩和される方向にある。
公用語は北京(ペキン)官話が国語として使用され、かなり普及している。それと並行して閩南(みんなん)語(台湾語)が主要な通用語をなし、客家語は北部の新竹、苗栗(びょうりつ)と南部の一部地域で通用し、先住の民族の言語は多種多様で部族内にしか使われていない。
台湾の人口は2278万5000(2006)に達し、人口密度は1平方キロメートル当り633人で、厳しい人口稠密(ちゅうみつ)問題を抱えている。しかし経済発展により雇用が増加し、女性の就業比率も高く、完全雇用を達成して失業者は少ない。1人当り国民所得は約1万5000ドル(2005)で、ほとんどの家庭にテレビ、洗濯機、冷蔵庫やビデオ、電話が普及しており、乗用車の保有台数も増えている。食生活を重視する国柄と相まって、国民生活の質的向上と富裕化が進んでいる。かつて労働力は低賃金、不熟練、女子若年労働が支配的であったが、近年、賃金上昇と労働力不足に直面し、かなりの外国人労働者を導入している。労働組合運動の制限やストの禁止は、戒厳令の解除と政治の民主化によって事情が一変している。人口が稠密なうえ、都市化が進み地価が高く、住宅事情はかなり厳しい。
台湾は学歴重視、教育熱心の社会で、戦前から基礎教育が普及し、戦後は教育の量的・質的発展が著しい。教育制度は六・三・三制をとり、9月を学年開始期とし、1969年から義務教育の年限を中学まで延ばして9年とした。1996年の時点で小学校と中学校の進学率は100%に近く、短大以上の大学は国公私立あわせて137校に上り、大学進学率は同年齢層の50%を超えている。大学は国公立優位の傾向が強く、国公私立の統一入試制度がとられ、受験競争はきわめて厳しい。孫文思想と反共教育を重視し、軍事訓練や兵役義務が教育課程に取り入れられている。1960年代以降、大量の大学卒業者が海外に留学し、とくに理工系の学生でアメリカに留学する者が多く、頭脳流出が問題とされたが、近年は人材の還流が増えている。信仰は自由で、もっとも多いのが道教、次に仏教、天主教、キリスト教の順となっており、宗廟(そうびょう)、寺院、教会が随所にみられる。基本的には多神教が圧倒的で、異なる宗教に対しては寛大な社会であり、宗教間の対立矛盾はほとんどない。
台湾の文化は基本的には中国文化圏の流れをくんでいるが、近代史の過程で外国との接触が多い関係上、日本やヨーロッパ文化の摂取も比較的進んでいる。第二次世界大戦後は中国本土の社会主義化に対抗して、意図的に伝統的儒教文化の継承発揚が強調され、文字でも繁体漢字の使用に固執している。社会生活では儒教倫理と伝統的家族主義を基本に、家庭では孝行の徳目を重視し、社会では血縁的宗族主義が根強く、宗教の戒律による生活規範は緩い。民衆は労働意欲が高く勤勉で、余暇を利用した行楽、旅行、スポーツは最近ようやく盛んになっている。文化施設は台北にある故宮博物院が有名で、大陸から移してきた国宝級の宝物、書画美術品62万点が収蔵され、国際的に定評がある。文学活動はかつて非常時体制下の言論・思想統制により反共文学的色彩に覆われていたが、1970年代以降、台湾の現実社会を題材とした郷土文学作品が続出して注目を浴びた。大衆娯楽の映画、音楽やテレビは日本とアメリカの影響が強く、書画は大陸から流入した人たちの影響で一定の水準が維持されている。新聞、雑誌の種類は多いが、1988年まで出版物規制法により言論、マスコミに厳しい検閲制がとられていた。民主化、自由化により、夕刊、英字を含めた新聞が22紙、総発行部数は480万部(1996)に達し、民間系テレビ局も増えている。日本とは歴史的、地理的、文化的に関係が深く、古い年配の世代には日本語のわかる人が多く、老若を問わず日本に対する国民感情はきわめて良好で、本省人は概して親日的である。
[劉 進 慶]
『許新枝著『台湾省の地方自治組織』(1988・東豊書店)』▽『李登輝著、陳鵬仁訳『台湾がめざす未来――中華民国総統から世界へのメッセージ』(1996・柏書房)』▽『酒井亨著『台湾入門』(2001・日中出版)』▽『伊原吉之助編著『台湾の政治改革年表・覚書2001年』(2004・交流協会)』