柳瀬村(読み)やなぜむら

日本歴史地名大系 「柳瀬村」の解説

柳瀬村
やなぜむら

[現在地名]砺波市柳瀬

庄川西岸にある大村で、南は久泉ひさいずみ村・太田おおた村、北は開発かいほつ村・なか村、東は同川を挟んで頼成らんじよう村。村名は、昔数筋の河川が流れ、その瀬ごとに簗をかけたことから柳瀬村となったという(稿本柳瀬村誌)中筋なかすじ往来と俗称される古道が南北に縦貫し、中世末には柳瀬千軒の市があったと伝える(越の下草)。慶安二年(一六四九)杉木新すぎのきしん町の町立願書(杉木新町文書)に市日は柳瀬の市日とは差合せないと述べられており、近世前期まで市が設けられていた。中筋往来に沿って民家が並び、東町ひがしまち中町なかまち・西町の俗称がある。また道沿いの川をまち川という。近世の初め庄川が村の東へ移ったために民居は西へ集中し、この町筋を中心として塊村状を呈する。

慶長一〇年(一六〇五)の柳瀬村給人等定書(「旧記延宝初終八年」菊池家文書)に村名がみえ、免相は一〇〇石につき二五俵(ただし京枡六斗俵)、川崩れがあれば高次第に割符とすることなどと定められている。

柳瀬村
やなせむら

[現在地名]神戸町柳瀬やなぜ

揖斐いび川の右岸、平野井ひらのい川の左岸に位置し、北は瀬古せこ村。南部を東西に中山道が走る。「濃州徇行記」に「此柳瀬には柳の古木多し、柳瀬というも宜なる歟」とある。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録(京都大学蔵古文書集)に国衙領の一つとして「簗瀬郷久勝」とみえる。暦応四年(一三四一)八月七日、幕府評定衆摂津親秀は惣領能直に簗瀬やなせの地を譲り、同月一二日に安堵の外題を受けているが(「摂津親秀譲状并安堵外題」美吉文書)、これは地頭職と考えられる。「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)七月五日条によると、将軍足利義政の命により西芳さいほう(現京都市西京区)などの所領が注進されたが、同寺は全盛時に梁(簗)瀬郷のうち楽田がくでん(現大垣市)南方より年貢三九貫五八七文を受取っており、同郷は当村とその付近一帯に比定される。

柳瀬村
やないせむら

[現在地名]物部村柳瀬

上韮生かみにろう川と槙山まきやま川が合流する付近、上韮生川両岸に集落があったが、昭和三二年(一九五七)永瀬ながせダム建設に伴い立花たちばな平井ひらい吹越ふいこしなどの集落を残して大部分が湖底に沈んだ。北東の上韮生川東側が安丸やすまる村、北西が神通寺じんつうじ村、南は槙山郷の大栃おおどち村に接する。上韮生川に沿って東北行すると阿波国に通じる。「土佐州郡志」は「東西一里十町南北四十五町、戸凡七十八、其土赤」と記し、「柳瀬・日浦・影野・平井・諸松・立花、惣曰柳瀬村」と村内の集落をあげる。柳瀬の名称について「南路志」には「村老云、昔は川の両方より柳はえ茂り水の流見えぬ程の所も有と云、依て柳瀬と呼伝へし歟、野中氏時代より奥山にも段々田を開きける故、次第に川水出増洪水あり、いつとなく川弘く成たると世に言伝へし也」とある。

柳瀬村
やなぜむら

[現在地名]志雄町柳瀬

荻島おぎのしま村の西、千里浜ちりはま砂丘の内側に位置し、集落中央部を長者ちようじや川が北流。砂丘上の出浜ではま村は柳瀬出村と称し、もと当村枝村。大鍋・善平・与平・弥平・五右衛門・さぶ・八右衛門の七軒衆とよばれる開発百姓によって創村されたと伝える(羽咋郡誌)。享禄四年(一五三一)七月の一宮惣分目帳案(気多大宮司家文書)に、気多社社領の畠地子分として「壱所 あわうしんぼう 弐百廿五文 やなせ伊藤三郎方」とある。正保郷帳によると高四二一石余、田方二〇町六反余・畑方七町四反余、免四ツ七歩五厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(柳瀬区有文書)では高四四五石、免四ツ八歩、小物成は山役二九〇目・苦竹役六匁、猟船櫂役三〇目(うち出来一〇匁)、鳥役六匁(出来)、網役五九匁。

柳瀬村
やながせむら

[現在地名]余呉町柳ヶ瀬

小谷おおたに村の北、余呉川源流(柳ヶ瀬川)域の山村。西の柳ヶ瀬山は中尾なかお山とも称し、建武三年(一三三六)七月中尾における小代氏の軍忠に対し、高師直・師冬が証判を与えている(「小代重峯軍忠状」小代文書)。また同山の内中尾うちなかお嶺は天正一一年(一五八三)賤ヶ岳の戦で柴田勝家が本陣を置いた。現在福井県側の呼称である玄蕃尾げんばお城跡として滋賀・福井両県の指定史跡。城砦は自然の要害を利用、南北約三〇〇メートル・東西約一五〇メートル。南の行市ぎよういち山まで尾根伝いに一里余・幅三間の軍道を造った(輿地志略)

柳瀬村
やなせむら

[現在地名]中伊豆町柳瀬

大見おおみ川に支流ひえ川が合流する南岸に位置し、西は梅木うめぎ村、北は八幡はつま村。延宝四年(一六七六)の高八〇石余(「伊豆国中拾組高寄帳」石橋家文書)、元禄(一六八八―一七〇四)初年新田高五石余が加わる(元禄初年高帳)。江戸時代初期は幕府領、享保二年(一七一七)旗本柳生領となり(韮山町史)旧高旧領取調帳でも同領。寛政九年(一七九七)の当村諸品改(三枝家文書)によると田方三町余・畑方六町六反余、屋敷は畑方に含まれ五反余。

柳瀬村
やなぜむら

[現在地名]君津市広岡ひろおか

西は打路木うつろぎ村・稲滝いなたき村、小櫃おびつ川を渡って小坂こさか村・鴫畑しぎはた村へ通じる。村域は同川に注ぐ沢に沿って展開している。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳には「早瀬村」(柳瀬村の誤記か)とみえ、高八四石。元禄郷帳に村名がみえ、高八〇石余。天保郷帳では高一一〇石余。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)には「簗瀬村」とあり、久留里藩領。以降の領主の変遷は向郷むかいごう村に同じ。文政一二年(一八二九)の農間渡世書上(鈴木家文書)によれば家数一九、うち農業一統渡世一二・農間渡世七、人数一一二。

柳瀬村
やなせむら

[現在地名]田主丸町八幡やわた

早田そうだ村の西に位置する。屋敷地はふる川と筑後川の合流点西側にあり、耕地は古川西岸に沿う築廻堤の両岸に散在する(上三郡絵図)。幕末の筑後川絵図(木村家蔵)では当村川岸通二八〇間、筑後川に水寄枠木七〇間・中曾繋五〇間が描かれる。正保四年(一六四七)の大小道之帳によると筑前国林田はやしだ(現甘木市)と結ぶ柳瀬徒渡(幅一〇九間・深さ二尺)がある。本高は八七石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一四〇石・役高三二九石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦一二石四斗余・小麦七石四斗余・菜種四石九斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)

柳瀬村
やなのせむら

[現在地名]伊野町柳瀬

鷹羽たかばもり(九一八・九メートル)の南、仁淀によど川北岸に位置する。吾川郡に属し、「土佐州郡志」は「東西一里十町南北一里余」と記すが、これには枝村柏原かしわばら村も含まれる。郷帳類は「柳ノ瀬村」と記す。天正一七年(一五八九)の下分七名地検帳などによれば、吾川山あがわやま庄のうちと思われる下分しもぶん七名に含まれたと考えられる。同地検帳に村名がみえ、この村域には柏原村域も含まれる。すべて長宗我部元親の甥吉良親実の所領で、切畑の記載が多い。慶長二年(一五九七)の下分地検帳は吉良氏没落後の状況を示し、平五良名・四郎衛門名など多くの百姓名に分れている。屋敷数三二。

元禄地払帳は柏原村と連記合石して総地高二四六石余、うち本田高一一〇石余・新田高一三五石余。

柳瀬村
やなぜむら

[現在地名]八女市柳瀬

宮野みやの村の南西、矢部やべ川右岸に位置する。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に「やな瀬村」とみえ、高三一四石余。本高は三五一石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高八〇〇石・役高六三二石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高六三二石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田二九町六反余・開田八反・畑田三町一反余・畑四町九反余・居屋敷五反余。慶応四年(一八六八)の軒数一四二・人数七九二、作馬二四(「人家人高田畑畝作馬調子帳」矢賀部家文書)。旧高旧領取調帳では高一千四八石余。正保四年(一六四七)の大小道之帳に横道として福島ふくしま町より矢部川南岸に渡る路程が記され、久留米藩領古図に柳瀬歩渡とみえる。

柳瀬村
やなぜむら

[現在地名]窪川町七里ななさと 柳瀬

四万十しまんと川左岸、西川津野にしかわづの村対岸の沖積地にある村。「仁井田郷談」(「南路志」所収)によると、古くは仁井田にいだ本在家ほんざいけ郷一二村の一。中世には茶臼森ちやうすがもり(四〇一・六メートル)に仁井田五人衆の一人西氏の川原番かわらばん城があった。西氏は一条氏が同氏領東境に置いた八番頭のうち川原番頭を勤めたといわれる。天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳に「是ヨリヤナセノ村」として地積一〇町二反余、ヤシキ二〇筆が記され、このうち西分が九町一反余、東分が一町余。

江戸時代前期は土佐藩家老窪川山内氏の知行地であった。元禄地払帳では総地高三四九石余、うち本田高九一石余、新田高二五七石余。

柳瀬村
やなせむら

[現在地名]龍神村柳瀬

日高川に沿い、北西下流は福井ふくい村、北東上流は安井やすい村。南方にとらヶ峰(七八九・五メートル)があり、虎ヶ峰峠は西牟婁にしむろ郡との境になる。「続風土記」は「村名の義は梁を打瀬にて、大川によれる名なるへし」と記す。

慶長検地高目録では村高一七四石余、小物成一・三三八石。「続風土記」は、享保年中(一七一六―三六)に二村に分れたとするが、すでに延宝六年(一六七八)の「日高鑑」は上下の二村に分けて記している。

柳瀬村
やなぜむら

[現在地名]新湊市七美しちみ

弐拾六町にじゆうろくちよう村の東に位置し、西を鍛治かじ川が流れる。同川は当地では柳瀬川とよばれる。正保郷帳では高三五二石余、田方二三町一反余・畑方三反余、新田高八五石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印は当村・柳瀬新村連名で出され、当村の草高四〇五石、免三ツ八歩、両村の小物成は野役三五匁(退転)・川役五匁(三箇国高物成帳)。安永七年(一七七八)の高四〇八石、百姓一六・頭振一〇(「村鑑帳」大久保家文書)。文化一四年(一八一七)の高四〇八石、畑高一九石余、肝煎扶持米三石、家数二七、開作舟七艘(「村鑑帳」斎藤家文書)

柳瀬村
やなせむら

[現在地名]広川町柳瀬

ひろ川の右岸、名島なしま村の南になか村と川を挟んで位置する。「続風土記」に「梁瀬の義なり」とある。村の北側は高城たかしろ山の峰続きである。村内の椎木しいのき谷は人家の多い集落を形成し、山田やまだ(現湯浅町)へ通じる道がある。中世能仁のうにん寺が名島に創建され、近接するためか、村内に寺谷てらだに寺口てらぐちなどの小字名が残る。

柳瀬村
やなせむら

[現在地名]宇目町南田原みなみたばる 柳瀬

田代たしろ村の南西、真弓まゆみ村の東、きた川の支流中岳なかだけ川下流域に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高六斗余・畑高一三石余、宇目郷に属した。旧高旧領取調帳では高一六石余。寛政八年(一七九六)には小野市組に属し、村位は下、免一ツ七分(「高反別物成品々書抜帳」県立大分図書館蔵)

柳瀬村
やなせむら

[現在地名]犀川町柳瀬

崎山さきやま村の北、いま川西岸の丘陵地(通称「茶臼の城跡」)麓に位置する。簗瀬とも記される(正保国絵図など)。元和八年人畜改帳に村名がみえ、給人二人分の高三八三石余、家数四四・人数八六(うち庄屋二・百姓一一・名子一三)、牛八・馬七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報