柳沢村(読み)やなぎさわむら

日本歴史地名大系 「柳沢村」の解説

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]一宮町柳沢

桃川ももがわ村の東の丘陵性山間地にある。東は多賀たが村・郡家中ぐんげなか村。東に岩上いわがみ(二一一メートル)がそびえ、岩上山系に発する柳沢川が深い谷底を北東へ流れる。北東から南西へなか街道が通る。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文には津名郡の国領山田やまだ保に含まれ、同保のうち畠七町四反六〇歩(除畠一町二反・残畠六町二反六〇歩)が「柳沢草加分」と記されている。山田保地頭は長尾景茂であったが、柳沢・草加くさか分は別に、駿河入道とよばれた鎌倉幕府重臣中原親能の子中原季時が地頭であった。

天正一四年(一五八六)一一月三日の羽柴秀吉知行方目録に「柳さわ」とあり、高四五〇石余、脇坂安治領となっている。正保国絵図では高六〇一石余。元禄一六年(一七〇三)検地帳(浜岡氏所蔵文書)うしろ傍示・下分しもぶん本村傍示との二冊からなり、田畠の株数三千一七九株(枚)、高一千六三八石余。天保郷帳では高九〇六石余。

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]武川村柳沢

大武おおむ川の右岸に位置し、大武川の北にはなか山、南西に鳳凰ほうおう山、西に駒ヶ岳を望む段丘に挟まれた沖積平地にある。山梨県の三大民謡の一つ縁故節に「縁でそうとも柳沢はいやだよ、女子木を切るかやを刈るションガイナ」と歌われ、その発祥の地とされる。甲府藩主柳沢氏の名字の地である。天正一〇年(一五八二)八月一六日に柳沢兵部丞に宛てて柳沢郷七〇貫文ほかが宛行われている(「徳川家印判状写」記録御用所本古文書)。同年一二月七日には小沢善大夫に柳沢内加藤分三貫文ほかが本給の替えとして、柳沢兵部丞には柳沢郷七〇貫文ほかが渡された(「徳川家康印判状写」同古文書)

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]西川町睦合むつあい

寒河江さがえ川左岸の河岸段丘上にあり、南流する八木沢やぎさわ川から西に集落が延びる。東の石田いしだ村および熊野ゆうの村と一緒に文書を出すことが多かった。中世には北寒河江庄熱塩あつしお郷のうちで、白岩大江家領であった。最上氏領から元和八年(一六二二)酒井忠重領、寛永一五年(一六三八)幕府領、安政三年(一八五六)松前藩領。元和八年の高三六三石余(西村山郡史)正保郷帳では田方三二九石余・畑方三四石余。寛文一三年(一六七三)の検地帳(設楽文書)では高三六五石余、田一二町五反余・畑屋敷四町一反余で、屋敷持一四名・田持一八名・新田持一六名が記される。

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]宮崎町柳沢

東は谷地森やちもり村、南の川対岸は小野田おのだ本郷はら(現小野田町)、西は宮崎村、北は下多田川しもただがわ(現中新田町)に接する。正保郷帳に田五〇貫五文・畑八貫八一六文とあり、柴山と注記される。「安永風土記」によれば、田五五貫九八八文・畑一〇貫四八六文で、蔵入は三〇貫五五九文、給所は三五貫九一五文、人頭三六人(うち寺一)、家数三六、男一〇九・女九二、馬五二で、神社は村鎮守の諏訪社など六社、御林三ヵ銘があり、松・雑木の林であった。

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]中山町柳沢

土橋つちはし村の南に位置し、白鷹しらたか丘陵の東縁部を南北に走る街道(岡街道)に沿う。文政期(一八一八―三〇)頃、同じ村山郡内の柳沢村(現西村山郡西川町)などと区別するため東柳沢とも記した。元和八年(一六二二)山形藩領となり、以降正保元年(一六四四)幕府領、天和二年(一六八二)大名本多利長領、元禄一二年(一六九九)幕府領、文政六年陸奥白河藩領となるが、慶応二年(一八六六)藩主阿部正静の転封により陸奥棚倉藩領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高五七九石余。正保郷帳では田高四八三石余・畑高九六石余。寛文・延宝検地では高六九四石余(最上記)

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]飯山市大字豊田とよた

高井郡柳沢村(現中野市)と区別し下柳沢しもやなぎさわ(元禄郷帳・天保郷帳など)ともいう。五束ごそく村と小境こざかい村の間にあり、五束村の健御名方富命彦神別神社の東側に接する。平丸ひらまる峠への登り口にあたる。

慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「百六拾壱石五斗四升弐合 柳沢村」とあるのが初見。

寛保二年(一七四二)秋、千曲川大洪水で広井ひろい川が逆流し、下柳沢村は高二二一石のところ一二〇石分が泥水入りとなり、水入りの村々一同とともに国役金延納を願い出て認められた。

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]沼津市柳沢

愛鷹あしたか山の南麓に位置し、東は鳥谷とや村、西は青野おおの村。根方ねがた街道が通る。愛鷹山南麓の村々の多くが同街道沿いに集落を形成しているのに対し、当村集落は街道から北へ数丁離れた所にある。中世には阿野あの庄域に含まれた。元亀三年(一五七二)一一月一九日当地の土豪と思われる小野部兵衛尉は阿野庄内の「阿原東山」の土貢納入を命じられるとともに、「柳沢」や「後藤与右衛門尉分、柳沢宮地分」などの名田を安堵されている(「武田家朱印状写」小野文書)

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]赤泊村柳沢

新保しんぼ村の北東、北東は真浦まうら村、北西は山続きに大崎おおさき(現羽茂町)に接する。慶長五年(一六〇〇)の佐州東三川之内柳沢村御検地帳(柳沢区有)に「三河之内柳沢村御料所」とあり、上杉景勝直轄領であった。高二四石二斗余で、百姓七人のほか、「連養坊」という寺があった。寛延四年(一七五一)の村明細帳(同区有)によると田六町八反余・畑一一町一反余。戸口は三〇軒・一五八人。

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]原村柳沢

現原村の北端に位置し、阿弥陀あみだ岳を源とする弓振ゆんぶり川が集落内を西流している。北は中道なかみち村・山田新田やまだしんでん村(ともに現茅野ちの市)に接する。縄文中期の前尾根まえおね・柳沢の二遺跡がある。

「諏訪史」には開発年代は承応元年(一六五二)とあり、元文三年(一七三八)三月の柳沢新田の草分給についての口上書には、

<資料は省略されています>

とあって、草分人が吉左エ門であるが、開発の証文紛失を述べている(「諏訪史蹟要項」原村篇)

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]那珂湊市柳沢・柳が丘やなぎがおか

中丸なかまる川を境として東はみなと村、北は部田野へたの村、中根なかね(現勝田市)那珂川と中丸川に挟まれた細長い台地の北半部と中丸川右岸の水田地帯からなる。享禄四年(一五三一)の恵範上人筆「那珂湊補陀落渡海記」に「柳沢」と出る。寺脇てらのわき寺前てらまえ大門寄瀬だいもんよせ寺谷原てらやわらの小字があり、湊村の華蔵けぞう院がかつてあったという伝承がある。

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]三条市柳沢

嵐北東山丘陵沿い、西側に開けた村で、北は上保内かみほない村、南は上野原うえのはら村と接する。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に、馬場四郎左衛門尉分や石付清七郎分として柳沢村がみえる。次いで文禄四年(一五九五)六月一一日の直江兼続黒印状(上松文書)に、蒲原かんばら保内ほない六ヵ村の一として記される。近世ははじめ三条藩領で、元和六年(一六二〇)三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に村名がみえ、高三二四石五斗余。

柳沢村
やなぎさわむら

[現在地名]大洲市柳沢

大洲市の東北部にそびえる秋葉あきば(七二二メートル)の南麓を西から東へめぐる矢落やおち川の中流、標高二〇〇―四〇〇メートルにある渓谷の村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多きた郡の項に「柳沢村 茅山有」とある。大洲藩領。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」によれば「米・大豆・紙・煙草・栗・胡麻」の土産がある。宝暦一二年(一七六二)の「紙御役所御仕法旧記」(曾根家文書)によれば、村内に半紙漉二一人、小間紙漉三一人がいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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