武川村(読み)むかわむら

日本歴史地名大系 「武川村」の解説

武川村
むかわむら

面積:六〇・七八平方キロ

郡西部の南端に位置し、西は南アルプスの鳳凰ほうおう山を境に中巨摩郡芦安あしやす村、南は小武こむ川を隔てて韮崎市、北東は釜無川をもって長坂ながさか町・須玉すたま町、北はなか山・大武おおむ川・尾白おじろ川をもって白州はくしゆう町に接する。村域内を釜無川・尾白川・大武川石空いしうとろ川・黒沢くろさわ川・小武川が流れ、これらの河川の形成した河岸段丘沖積扇状地は古代から中世初頭にかけて、甲斐三御牧の一つとして知られ、武川衆の根拠地となった。中世後期から近世以降開拓が進み、生産や居住の基盤になった。一方、水害にたびたび脅かされた。近世初頭に甲府から中山道下諏訪宿を結ぶ目的で開かれた甲州道中(現国道二〇号)が南東から北西に縦貫し、街村として宮脇みやのわき牧原まきのはら三吹みふきがある。村名は昭和八年(一九三三)新富しんとみ村と武里たけさと村が合併した時に、武川筋ということと大武川・小武川の流域に開けた村という意により命名された。

大武川右岸の黒沢から山高やまたかを経て真原さねはらに至る高台地域には縄文時代の遺跡が多く、低位の釜無川右岸の段丘地帯では平安時代の集落が発達している。また小武川左岸の新奥しんおくには縄文・平安時代の遺跡が知られている。神代ザクラで知られる実相じつそう寺周辺には遺跡が多く、実原さねはらB遺跡からは草創期の有舌尖頭器が採集され、中期の土器も広く散布している。隣接する実原A遺跡では部分的な調査ながら縄文中期五領ヶ台式から新道式期を中心とした住居跡一〇軒が発見されており、山高B遺跡や東原ひがしはらA・B遺跡も含めこの一帯に集落が広がっていたことが推測される。山高の再奥部には中期を主体とした真原遺跡群があり、真原A遺跡からは中期後半曾利II式期の住居が発掘されている。黒沢から新奥にかけての地域にも縄文遺跡が所在する。とくに向原むかいはら遺跡は前期から後期の遺跡である。弥生時代から古墳時代の遺跡は少ないものの、平安時代になると山高などの高台に加え、釜無川右岸の低位段丘面を中心に遺跡が多くなる。とくに三吹の宮間田みやまだ遺跡では九四軒の住居跡、四五棟の掘立柱建物跡などが調査されている。同遺跡牧の経営にかかわる集落という見方もなされている。

律令時代には巨麻こま真衣まきの(和名抄)に属した。真衣は牧に由来するとされ、古くから牧馬の成育地であったとみられる。平安時代には甲裴の三御牧の一つである真衣野まきの牧が設置され、柏前かしわざき(現高根町)とともに朝廷に毎年三〇疋の貢馬が行われた。「吾妻鏡」建久五年(一一九四)三月一三日条に鎌倉の源頼朝のもとに駒八疋を送った甲斐国武川御牧がみえ、この牧を真衣野牧の後身とする説もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報