柚木村(読み)ゆのきむら

日本歴史地名大系 「柚木村」の解説

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]徳地町大字柚木

佐波川の上流域に集落が点在する。大村で、北は徳佐とくさ(現阿武郡阿東町)、西は地福じふく(現阿東町)野谷のたに、南は三谷みたに、東は大潮おおしお(現都濃郡鹿野町)の各村と接し、北東は石見国鹿足かのあし(現島根県)に接する。村界には七〇〇メートルを超す山々がそびえ、村域のほとんどが山で、佐波川およびその支流の谷間に水田がある。萩藩領で徳地宰判に属した。

伊勢神宮の御師が祈祷札を配った時の手控である中国九州御祓賦帳の永禄七年(一五六四)分に「柚木 とくわう丸」とみえる。

近世初期は下徳地しもとくじの一部であったと思われ、寛永三年(一六二六)の熊野帳に下徳地枝郷として柚木村がみえる。

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]佐世保市柚木町・柚木元町ゆのきもとまち上柚木町かみゆのきちよう小舟町こふねちよう

里美さとよし村の北西に位置する。小塚こづか岳・国見くにみ山・八天はつてん岳・隠居いんきよ岳などに囲まれた盆地状の地勢で、うおくち川・牟田むた川を合せた相浦あいのうら川が流れる。古くはイノキともよんだとされ、平家の落人伝説がある。江戸時代は平戸藩領で、相神浦筋郡代の管轄下にあった。元和九年(一六二三)平戸松浦氏の支配権が確立するに伴い、敗れた宗家松浦氏の家臣らが寛永年間(一六二四―四四)より開拓を始めたといわれる。

柚木村
ゆぬきむら

[現在地名]相馬市柚木

大関おおぜきと字いちつぼにある二つの堤から発した(矢野目川)流域の平坦地から台地にかけて位置し、同川は八沢やさわ浦に注ぐ。東は蒲庭かぱにわ村、南は行方なめかた郡南柚木村(現鹿島町)八沢浦を隔てて同郡北屋形きたやかた(現同上)、西の赤木あかぎ村との境を浜街道が南北に走る。明暦二年(一六五六)に南柚木村を分村したとされることから(相馬藩政史)、このとき宇多うだ郡と行方郡の郡境に若干の変化があったと考えられる。天文七年(一五三八)の段銭古帳に宇多庄のうちとして「ゆい木」とみえ、段銭三貫二五〇文とある。

柚木村
ゆぎむら

[現在地名]青梅市柚木町

しも村の北西、多摩川右岸に位置する。御嶽みたけ山参詣の道者道が東西に通る。印融の「杣保隠遁鈔」第一の永正一一年(一五一四)六月の奥書に「杣保氷川郷由木村明王堂」とある。明王堂は即清そくせい(現真言宗豊山派)で、山方寄りの鎌倉街道が軍畑いくさばた渡で多摩川を渡り、同寺門前を通って下村町谷まちやに向かう。「金剛界私抄」永正一一年九月八日奥書によれば、勝沼かつぬま保由木円光えんこう坊で権律師善朝がこれを書写しているが、同坊は即清寺支配の円光院で、竹の下渡の渡河点にあたる。

柚木村
ゆぎむら

[現在地名]前津江村柚木

現前津江村の西部を占め、高瀬たかせ川流域のはる志谷しや北川きたごう太郎浦たろううら出野いずの星払ほしばらい田代たしろ小畑おばたけと、これらの北西のくまうえ(山上谷)筋の柚木本村ゆぎほんむら千蔵木せんぞうぎなどの集落からなる。両地区は一石いつこく峠で結ばれ、大野村との境に太郎浦峠がある。慶長六年(一六〇一)の両津江田畠物成帳(佐伯藩政史料)に「ゆき村」とみえ、津江の内として把握されていた。同七年の日田郡・玖珠郡御預米帳(同史料)には柚木村とあり、市右衛門大豆二六石余・米一四石余などとある。同一三年柚木村一八四石余が筑後柳川藩主田中隼人室の化粧領であったと伝える(「豊西記」など)

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]香北町猪野々いのの 柚ノ木

物部ものべ川支流日比原ひびわら川上流の西岸斜面にある小村。東に猪野々村大久保おおくぼ集落、下流東南方に日比原村があり、西南に御在所ございしよ山がそびえる。天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳は「自是柚木名先高分五百名ト有」として、柚木名四筆五反一〇代(田分四五代、残り山畠屋敷)を野中三郎左衛門の扣地と記す。名本助大良など耕作者三名の居屋敷も記される。

元禄地払帳によると本田高五・二石はすべて酒井宇平太の知行、新田高四二・九四石は貢物地。

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]富士市柚木

平垣へいがき村の西に位置し、東海道が通る。慶長四年(一五九九)横田村詮法度(牧田家文書)が「富士郡賀嶋根新田・油ノ木嶋」に宛てて出されている。同一四年の申上候控(同文書)に「加嶋柚之木嶋村」とある。加島新田開発により村の北および南の周辺部に柚木村の加島新田が成立(「村絵図」牧田家蔵)。寛永改高附帳に柚木村とみえ、田方三三二石余・畑方六〇石余、同所新田は田方三〇石余・畑方一石余。

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]静岡市柚木・宮前町みやまえちよう曲金まがりかね一丁目・春日かすが二―三丁目

谷津やつ山南東麓に位置し、南は曲金村。東海道が通る。「駿河志料」に「古へは谷津村と云し」とあり、庵原郡谷津やつ(現清水市)との混同を避けるため柚木谷津から柚木に改称したという。天文五年(一五三六)九月一七日の今川義元判物(安養寺文書)に「庭田京新名杉谷柚木沢堂山野原至于境目等、竹木不可截取之事」とあり、ここにみえる「柚木」は当地の可能性がある。寛永九年(一六三二)幕府領となる。

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]大豊町柚木

南西に流れる南小川みなみこがわの南岸に位置し、西峰にしみねかげと隣接する山村。「土佐州郡志」には「柚之木村」とあり、「西峰村西南、東西八町南北五十町」と記す。地名は天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に「南地九名」の一としてみえる。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「柚木名」とみえ、検地面積三町一反四九代二歩、うち田分一町三反二七代二歩、畠分九反一六代二歩、屋敷一九で九反五代四歩、堂床(地蔵堂)一。公事分と名本分からなる。

延享二年(一七四五)の豊永郷差出控(大家家蔵)によれば総地高三三一石余、うち本田高三二石、新田高二九九石余。

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]矢部町柚木

東は勢井ぜい村・藤木ふじき村・万坂まんざか村に接し、南は万坂山(六六三・七メートル)の稜線で下益城郡北野きたの村・小崎こざき(現砥用町)と境する。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「ゆのき」とみえ、貫高は一三貫。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属し、「国誌」に小村として高須たかす村・片布田かたふた村がある。

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]北部町硯川すずりかわ 柚木

台地上にあり、南東は古市ふるいち村、北西は田上たがみ村に接する。寛永一四年(一六三七)の地撫帳に柚木薗村とあり、高三八九石九斗余、田畑村より越高六二石五斗余、計四五二石四斗余で、畝数は先御帳前四六町一畝余・当竿前三七町三反三畝余とある。同二一年九月一日の細川光尚宛行状(筑紫文書)によれば、「肥後国飽田郡之内高平村・柚木薗村・阿蘇郡之内樋口村、於三ケ所都合参百石」が筑紫権十郎に宛行われている。「国誌」によれば五町手永に属し、「旧ハ柚木園村ト云リ、中村ト云小村アリ」とある。

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]緒方町柚木ゆぎ つるくち

宮畑みやはた村の西、緒方川南岸にある。室町期と推定される年未詳七月二日の能章知行預ケ状(奥嶽文書)で、工藤越前守に預けられている小河おがわ名の内の「柚木迫」は当地付近をさすか。正保郷帳に油木村とみえ、田高七八石余・畑高三八石余、緒方郷に属し、柴山有、日損所と注記される。

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]八尾町柚ノ木

上野うわの村の西、室牧むろまき川左岸にある。正保郷帳に柚ノ木村とみえ、村高は天池あまいけ村と合せて一一一石余、田方一町五反・畑方五町九反余。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高一一一石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高五五石。

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]庄内町北大津留きたおおつる 柚ノ木など

小挟間おばさま川右岸に位置し、南は影戸かげと村。江戸時代を通じて府内藩領で、奥郷橋爪組に属した(府内藩記録)。正保郷帳に村名がみえ田高一一七石余・畑高六八石余(合計二四六石余とあり)阿南あなん庄に所属。

柚木村
ゆのきむら

[現在地名]金沢市柚木町

不室ふむろ村の南東に位置。正保郷帳では不室村と並記され、高五八六石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三二一石、免五ツ八歩、小物成は山役一一六匁・漆役三匁・蝋役二匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数五・百姓数一四(高免付給人帳)

柚木村
ゆぎむら

[現在地名]佐屋町柚木

北は津島つしま(現津島市)に接し、南端を佐屋路が通り、松並木海道筋の名残となっていた。「徇行記」によれば、概高三六四石余は藩士六人の給知で、田は一三町四反四畝余、畑は一二町四畝余。「寛文覚書」に戸数二七、人数一三八人とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報