猪野々村(読み)いののむら

日本歴史地名大系 「猪野々村」の解説

猪野々村
いののむら

[現在地名]香北町猪野々

現香北町域東端に位置し、西北は物部ものべ川支流日比原ひびわら川を隔てて柚木ゆのき村。西南は日比原村、東は柳瀬やないせ(現物部村)。東西二・五キロ、南北二キロ、標高二〇〇―五〇〇メートルに広がる広域の村。

戦国期の土豪に猪野氏(のち伊野々氏・伊野氏)があり、猪野姓系図(「香北町史」所収)などによれば、鎌倉幕府御家人猪野六郎義房なる者が佐々木経高に従って阿波に来り、次いで元久二年(一二〇五)大忍おおさと庄を経て韮生にろう谷に入り、深山を開いたのが初めで、姓によってその地を猪野々とよんだという。子孫は猪野々名をはじめ柚木名・永瀬名・日浦古味名・中ノ内名・清爪名・白石名、都合七名高一五貫の地頭となった。義房から一二代目の民部正義は永正元年(一五〇四)楠目くずめ(現土佐山田町)の城主山田基道に城を攻略され、常陸国笠間へ行き、以後三代笠間で過ごしたが、正義の曾孫右京範道(常心)に至って土佐へ帰り、長宗我部国親に仕えて山田氏討伐に参加、天文二〇年(一五五一)清爪名を給され、次いで猪野々名をも回復した。長宗我部検地が行われる前年の天正一五年(一五八七)範道は清爪せいづめに隠居、家督は堪介範実(助左衛門)が継いだ。助左衛門と三男与七郎の給地は安芸郡の下分和食地検帳などに散見する。近世に入り助左衛門は猪野々村名本となったが、山間土豪の実力と動向に神経を配っていた山内氏によって最初の五年間は浦戸うらど(現高知市)にとどめられた。

猪野々村
いののむら

[現在地名]福知山市字猪野々・鴨野かもの

由良川の支流まき川に沿い、上小田かみおだ村の西にあたる。集落は牧川の南の台地上と対岸いけうちにある。「丹波志」に「猪ノ野村 池之内 猪ノ野」として高二四七石と記す。福知山藩領。寺社方覚帳(威光寺文書)に「田和村支猪野々村」とある。池ノ内は、猪野々の街道筋への出村であるが、北方宮垣みやがき村や田和たわ村の出口にもあたったため、のち中心集落となった。

猪野々は明治二〇年(一八八七)三月、近隣の民家の失火により二五戸を焼失した。

猪野々村
いののむら

[現在地名]御坊市塩屋しおや北塩屋きたしおや

王子おうじ川筋にある北塩屋浦の枝郷で、なか村とも称し、猪野々・中村の二集落からなる。村の北にある丘陵南斜面から弥生時代中期の土器・石鏃が出土、中村古墳群には七基の古墳があったとされるがわずかに遺物が残るのみで墳形は不明。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」には北塩屋三ヵ村のうち中村として村高一六三石余、家数二八で内訳は本役一三・半役七・無役五・庄屋一・年寄一・ありき一、人数一四六、牛一八、馬六、御蔵一とある。

猪野々村
いののむら

[現在地名]中村市ふじ

藤村西方うしろ川と内川うちかわ川の合流点下流右岸にあり、藤村の枝郷。天正一八年(一五九〇)の七夕村藤之村猪野村馬木村地検帳によると、猪野村の検地面積五町四反余、屋敷数七うち居屋敷五。江戸時代は元禄郷帳によると本田高五三石余。

猪野々村
いののむら

[現在地名]生野町猪野々

口銀屋くちがなや町の南東にある。銀山廻七町の一つ猪野々町と別に村方として高付されていた。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に「猪野」とみえ、高九一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報