板橋村(読み)いたばしむら

日本歴史地名大系 「板橋村」の解説

板橋村
いたばしむら

[現在地名]小田原市板橋・南板橋みなみいたばし二丁目・みなみ町四丁目・城山しろやま四丁目

西をはや川が流れ、東は小田原宿山角やまかく町、北は荻窪おぎくぼ村・水尾みずのお村と接する。東海道が東西に抜け、両側に町屋が並び、東南に熱海道が通る。小田原用水が村中を流れる。

「北条記」に「東は一色より板橋至迄、其間一里の程に店を張、買売数を尽しけり」とあり、小田原城下の延長としての賑いを伝える。もとは大窪おおくぼといい、享禄四年(一五三一)の朝倉右京進寄進書立写(県史三)に「拾貫文 西谷畠 大窪分」とあり、天正一五年(一五八七)北条氏の家臣朝倉政元は「拙者私領大窪分之内八貫百文之所」を伝肇でんちよう寺へ売却しており(「朝倉政元証文写」同書)、朝倉氏の私領があった。小田原衆所領役帳に朝倉右京進「廿二貫八百拾五文 西郡大窪分」と記す。寛文一二年(一六七二)の村明細帳(県史四)によれば、大久保氏の入部を機に村名をはばかって小田原用水に架けられた板橋にちなんで「板橋村」に改めたという。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]今市市板橋

壬生みぶ通の宿場。都賀つが郡に属し、北は土沢どさわ村、東は河内かわち木和田島きわだしま村、南は文挟ふばさみ宿。城山の山塊で南北に分れ、北は上板橋、南は下板橋とよばれ、西端部を壬生通が南北に通る。日光山往古社領六十六郷のなかに板橋郷がみえ、日光山内遊城ゆじよう院領(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。遊城院は代々宇都宮氏一族が院主につき、板橋郷、栗山くりやま郷など社領二〇〇貫文、坊人一六房を抱える大房。近世は初め結城秀康領、慶長五年(一六〇〇)板橋領、元和三年(一六一七)下総山川藩領となり、阿部重次(のち武蔵岩槻藩)領などを経て、日光領に編入されたと推定される。慶安郷帳には日光領として村名がみえ、田一二三石余・畑九五石余。

宿並の形成は元和三年壬生通整備のときと考えられる。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]白河市板橋

双石くらべいし村の東、阿武隈川右岸丘陵上に位置し、東・南・西の三方は山に囲まれる。村名は往古阿武隈川下流が閉塞して湖となっていた頃、当地に板の橋を架したことに由来するという(白河風土記)。集落はたて田中たなか作田さくだたけうち蟹内かにうちの五ヵ所に分れる。建武元年(一三三四)頃と推定される結城宗広知行所領注文案(伊勢結城文書)に結城上野入道道忠(宗広)の所領として「板橋郷」とみえる。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高五〇九石余。享保一七年(一七三二)写の結城松平領分村高調(小針家文書)では高六七〇石余。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]南牧村板橋

標高一二五〇―一四五〇メートルの野辺山原のべやまはらの中央。東は川上かわかみ(現川上村)、西は八ヶ岳あか岳、南は平沢ひらさわ峠、北は海口うみのくち村に接する。

近世初期の野辺山原には南北に縦断する佐久甲州脇往還と信玄の棒道といわれた古道(三軒家―平沢―現山梨県高根町清里)が通ずるのみで人家もなく、冬の旅行者と運送業者が難儀した。交通維持と行路者保護のため、慶長一一年(一六〇六)幕府は「海口村ヨリ平沢村之間 道法不同ニ相成 其上近年通行も多差支之間 此度(中略)右村之間へ引越被仰付間 心得違無之様ニ吟味可請者也」(「石原昌明等触書案」丸山史料)として平沢村と海口村の間に百姓を移し、新宿を作らせた。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]庄原市板橋町

三上みかみ郡の西端に位置し、西城さいじよう川の支流戸郷とごう川上流域を占める。丘陵が散在する地形で、丘陵の谷間に耕地が分布する。西は恵蘇えそ戸郷とごう村、東は是松これまつ村・新庄しんじよう村、南西は一木ひとつぎ村と接する。

村域北部にあるスクモ塚古墳は帆立貝式前方後円墳で横穴式石室をもち、後円部の直径は一五メートル。西原にしはら八幡宮裏山には西原古墳群(五基)がある。中世には信敷しのお庄西部に位置したが、戦国時代には山内氏の勢力下にあり、西原八幡宮は天正一一年(一五八三)に山内氏が造営したと伝える。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]伊奈村板橋

小張おばり村の東に所在。村内を台通だいどおり用水が貫流。村域の上街道かみかいどう遺跡は集落跡で縄文後期の土器・石斧が出土。大房地だいぼうち遺跡は集落跡で土師器の壺・高坏が出土。宮後みやうしろ古墳は円墳で直刀・石鏃・管玉・勾玉・人骨三体が出土。

戦国期には牛久うしく城主岡見氏麾下で、一時は小田氏麾下ともなった月岡氏の板橋城が村域南辺の台地城山じようやまに築かれた(筑波郡郷土史)

板橋村
いたばしむら

[現在地名]石川町板橋

阿武隈高地の丘陵地帯に位置し、北は南山形みなみやまがた村、西は山白石やましらいし(現浅川町)、南は白川郡西山にしやま(現鮫川村)、東は同郡仙石せんごく(現古殿町)。地内に康安年間(一三六一―六二)銘をもつものを含む四基の種子板碑が所在する。字沢古屋さわごや三沢みさわ城・沢古屋館といった中世城館跡があり、城主は石川一族で当地を本貫地とする板橋氏とみられる。観応三年(一三五二)四月一三日の吉良貞家吹挙状案(板橋文書)に「陸奥石川庄内千石・板橋、八幡宮神領下河辺村・沢尻等」とみえる。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]関城町板橋

犬塚いぬつか村の南にあり、村の北側にかつての大宝だいほう沼から延びる谷津が入込んでいる。戦国時代は多賀谷氏の領地で、家臣が村内の要害に配置されたという伝承がある。慶長七年(一六〇二)天領となり、正徳二年(一七一二)二月の検地帳(山口家文書)によれば村高は三五七石余で、古畑二八町五畝五歩・新畑一一町二反八畝余・田一一町一畝二三歩・屋敷五町一反六畝余であった。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]東北町 上板橋かみいたばし

あか川上流の左岸にあたる。藩政初期の村。正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に板橋村、一四石余とみえ、奥州街道から五丁の地にある。同年の郷村帳によれば一四・一六石のうち一一・五五石が畑である。貞享元年(一六八四)陸奥国南部領郷村高辻帳(岩手県盛岡市中央公民館蔵)によれば、一七・七石、安政六年(一八五九)一二月改の同書(同館蔵)には一〇七・四四二石とあって、いずれも独立村である。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」では二ッ森ふたっもり(現天間林村)の支村の一つとして、上板橋、家数二三とある。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]郡山市西田町板橋にしたまちいたばし

丹伊田にいた村の南、阿武隈高地西縁の丘陵に立地。三春みはる(現三春町)から本宮もとみや(現本宮町)へ通じる道が通る。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「三段 三百文 いたはし」とみえ、紀州熊野速玉はやたま社に年貢三〇〇文を納めていた。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には同内容で板橋とある。

板橋村
いたはしむら

[現在地名]美山町大字板橋

宮島みやじま一一ヵ村の一。由良川の支流はら川流域の山間集落。北は宮脇みやわき村、南は原村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、中世は野々村ののむら庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高七八・八二三石、旧高旧領取調帳では一五〇・〇三八石。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]龍ケ崎市板橋町

小野おの川右岸の台地にあり、北西は下大塚しもおおつか村。元禄郷帳の村高は五四四石余。江戸後期には小田原藩領で(「助郷差村騒動御裁許写」飯島家文書)、幕末は前橋藩領七一六石余(各村旧高簿)。水戸街道牛久うしく宿(現稲敷郡牛久町)の増助郷村で、文化二年(一八〇五)の助郷差村被仰付御請書写(野口家文書)によれば、助郷高は二九七石余。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]松浦市御厨町みくりやちよう 板橋免いたばしめん

田代たしろ村の南西に位置し、竜尾たつお川の支流田代川が流れる。西におお岳がある。江戸時代は平戸藩領で、田平筋に属する。正保国絵図に板橋村とあり、高一四七石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では御厨屋里みくりやさと村内に板橋免と記される。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]棚倉町板橋

上台うわだい村の北東、阿武隈高地西縁部丘陵に立地。中世に田村氏が築き、のち結城白川氏に属した上遠野美濃守盛秀が拠った中丸なかまる館跡がある。江戸時代の領主の変遷は伊野上いのかみ村と同じ。正保郷帳では高一三七石余、うち田一二六石余・畑一〇石余。元禄郷帳では高二二四石余。文化一四年(一八一七)の村指出帳(板橋区有文書)によれば、家数一五、人数六四(男三四・女三〇)、馬一七。

板橋村
いたばしむら

[現在地名]新里村板橋・赤城あかぎ

せき村の北に位置し、北は赤城山原野に続く。標高三五〇メートルの等高線がほぼ東西に走る。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳によると田方一〇六石余・畑方一九石余。近世後期の御改革組合村高帳では家数三二、陸奥泉藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報