日本大百科全書(ニッポニカ) 「土師器」の意味・わかりやすい解説
土師器
はじき
古墳時代から平安時代にかけて使われた、弥生(やよい)土器の系統を引く素焼(すやき)土器。
[岩崎卓也]
名称
土師器という語は『延喜式(えんぎしき)』にみられ、『和名抄(わみょうしょう)』で「波爾」すなわち「はじ」と訓じているから、平安時代にこの名が使われていたことは確かである。この名称を古墳時代の同系土器にまで及ぼそうというのは、まったく便宜的な理由によるものである。しかし、『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇17年条に、朝廷の料器をつくる部民として「贄土師部(にえのはじべ)」を設けたという記述があるから、その名のおこりは案外古いかもしれない。もっとも、考古学用語として土師器の名が定着したのはさほど古いことではなく、「埴部(はにべ)土器」が使用されたり、弥生土器ともども「埴瓮(はにべ)土器」の名で総称されたりしたこともあった。
[岩崎卓也]
製作
土師器は、粘土紐(ねんどひも)巻き上げ法によって成形するのが通常で、わずかに祭祀(さいし)用土器に手づくね法がとられた。8世紀後半以降、轆轤(ろくろ)成形が取り入れられるが、それは坏(つき)、鉢といった小形土器に限られていた。整形には叩(たた)き、刷毛目(はけめ)、磨き、なで、削り、押さえなど、多様な手法が用いられたが、それらの種類や組合せは、時代や地域によって相当な差異があった。焼成は酸化炎によったから赤みがかった色調となったが、その焼成温度は弥生土器同様800℃前後にすぎなかったから、それほどの窯(かま)が使用されたとは考えられない。しかし、7世紀以降、器表面の黒斑(こくはん)が急減する傾向がある点を重視するなら、火の回りを均一化するようなくふうが払われるに至ったことを認める必要はある。また、同じころ東北日本では、坏の内面を漆黒色に仕上げる風が急速に広がるなどの変化もあった。
[岩崎卓也]
上限と下限
土師器の始まりは、それが弥生土器の系統を引くものであるから、土器型式のうえから弥生土器との間に一線を画することは不可能である。したがって、それが古墳時代の所産であるか否かによって区別するほかはないのである。しかし、こうして分離してみると、斉一な形をとる祭器としての小形精製土器が新たに加わるのと時を同じくするようである。これが事実なら、小形祭祀用土器群の有無という様式上の差異によって、弥生土器から分離されることになろう。一方その下限は、中世的窯業の展開によって、土鍋(どなべ)ならびにある種の坏以外の土師器が、日常雑器の座を追われる段階をもって画している。「ほうろく」や「かわらけ」とよばれる土器が土師器の後身であることはいうまでもない。
[岩崎卓也]
製作者
土師器はその名称からして、土師氏が率いる土師部によって集中的に製作されたと思われがちである。確かに『日本書紀』の贄土師部や『延喜式』の玉手(たまて)土師、坏作(つきつくり)土師などは、土師器の貢納集団であったろう。また『正倉院文書』のうちの天平勝宝(てんぴょうしょうほう)2年(750)の「浄清所解(じょうせいじょのげ)」によれば、役所が女性の土器作り専門工人を雇ったこともあったようである。しかし、土師器にみる地域差、とりわけ東国などでは、土器の間の個体差さえ著しいことを想起するなら、生活用具としての土師器の製作については、さらに検討を要すると思われる。
[岩崎卓也]
諸型式
土師器は、3、4世紀から11世紀に至る長期にわたって使用された。また、その分布も北海道南部から九州一円という広域である。したがって、時期差ばかりではなく、地域間における差異も少なからず存在した。だが小形精製土器のような斉一性を有する土器を除外したとしても、なお小異を無視するなら、全国的に共通する形態上の特色を示す場合が少なくない。そのため、南関東地方における五領(ごりょう)式期→和泉(いずみ)式期→鬼高(おにたか)式期→真間(まま)式期→国分(こくぶ)式期という五段階編年を、そのまま標準尺度として全国に及ぼそうという考えが永く支配的であった。だが、たとえば3、4世紀の西日本では、内面を篦(へら)で削ることによって器壁を薄くした、丸底を基調とする甕形(かめがた)土器が盛行したのに、東日本のそれは台付きが主流で、外面を削って薄作りとしていた。このように土師器の製作法、使用法には、無視できない地域差が存在したことも銘記しなければならない。前述の事実を認めたうえで、以下にかつて全国的編年の尺度とも考えられた南関東地方の五段階編年を通じて土師器の推移を通観しよう。
[岩崎卓也]
五領式土器
3世紀の後半ころ、土器の広域な交流が活発化する。畿内(きない)地方の庄内(しょうない)式土器が主として西日本一円に広がりをもったのに対し、東海地方西部系の土器が東北地方南部にまで影響を及ぼした。このような動きのなかで、各地方の弥生土器が急激に変容を始めるのである。五領式土器もこのようにして成立した。3、4世紀を中心に使用された五領式土器は、有段口縁を特色とする装飾的な貯蔵・供献用の壺(つぼ)、刷毛目調整痕(こん)をとどめる薄作りの煮沸用甕、少量の甑(こしき)、供膳(きょうぜん)用としてのできのよい高坏や埦(わん)、それに祭祀・供献用の小形器台、鉢などの小形精製土器を主要器種とする。その後半期には、小形精製土器に小形丸底坩(かん)が加わる。他地域の土器を少量ずつ共伴するのも、この時期の特色といえよう。近畿地方の庄内式期新段階から布留(ふる)式期古・中段階に対応する。
[岩崎卓也]
和泉式土器
5世紀代に盛行した土器群で、供献用土器の消滅がとくに注目される。すなわち、壺は急減するとともに粗雑化し、小形精製土器群もほとんど姿を消し、ただ一つ残る小形丸底坩も粗いつくりとなる。浅い坏部に稜(りょう)をもち、細い柱状脚を特色とする高坏が目だつとともに、埦、坏など個人用の盛器が数を増す。「く」字形に鋭くくびれる頸部(けいぶ)と球形胴に特色をもつ甕は、もはや薄作りではなく、器表面の刷毛目が篦によって消し取られる傾向がある。近畿地方の布留式期新段階に対応し、そろそろ須恵(すえ)器が共伴し始める。
[岩崎卓也]
鬼高式土器
5世紀後半期に使用が始まる土器群で、須恵器を模倣した有段の坏や坩などを伴うことに特色がある。これは、窯業地帯をもつ近畿地方などを除く東国や九州などで普遍的にみられた現象である。住居へのかまどの採用に伴い、煮沸用の甕が長胴化し、同様に火力の向上によって大形甑の使用が可能となった。坏、皿などの銘々器はますます増加したが、小形丸底坩や高坏などは急減し、器種は乏しくなる。貯蔵器などはそろそろ須恵器にその座を譲り始める。
[岩崎卓也]
真間式土器
7世紀後半期からおよそ1世紀の間使用された土器群で、浅い盤状の坏に特色がある。須恵器が一段と普及し、土師器の種類はさらに減る。それとともに坏の一部は回転台によって整形されるようにもなる。煮沸用の長胴甕の外表は、鋭利な工具で大胆に削って薄い器壁をつくっている。このころから東北地方の土師器が北海道にもたらされ、やがて同地方の擦文(さつもん)土器を成立させたようである。
[岩崎卓也]
国分式土器
坏類が轆轤によって成形されるようになる点を最大の特色とする。初期の坏は、底部の糸切り痕を消し去り、内面も磨くなど、つくりはていねいだが、未熟さによるのか底径は大きい。のちにだんだん小さな底をもつものに変わるが、つくりは雑になる。須恵器の普及とともに、土師器は煮沸器と皿類にほぼ限られるようになる。しかし、都を控えた近畿地方では、8世紀以降も土鍋、釜(かま)など煮沸器は多種多様である。東国などでは薄手の甕と、遅くなって羽釜(はがま)が用いられる程度であった。11世紀に至る最終段階の土師器である。
[岩崎卓也]
『杉原荘介・大塚初重編『土師式土器集成Ⅰ~Ⅳ』全4巻(1972~74・東京堂出版)』