新宿村(読み)しんしゆくむら

日本歴史地名大系 「新宿村」の解説

新宿村
しんしゆくむら

[現在地名]桐生市新宿一―三丁目・清瀬町きよせちよう織姫町おりひめちよう美原町みはらちよう稲荷町いなりちよう錦町にしきちよう一―三丁目・桜木町さくらぎちよう三吉町みよしちよう一―二丁目・小梅町こうめちよう琴平町ことひらちよう浜松町はままつちよう一―二丁目

渡良瀬川左岸で、しん川との間に形成された河岸段丘上に位置し、赤岩あかいわ用水の取水口。北は新川を挟み本宿もとじゆく村、南は境野さかいの村、西は渡良瀬川を隔てて如来堂によらいどう村。渡良瀬川に沿い稲荷とうか塚などの古墳がある。元亀二年(一五七一)「大洪水にて本宿流失、此時三つ塚より奉行原にかけ新宿を開拓、鎮守八幡宮を遷す、最勝寺も此時建てる」(「新居旧記」新居文書)とあり、氾濫原上に立地する本宿村の住民が、洪水の危難を逃れるため南に長く延びた自然堤防上に分住したものであろう。

新宿村
あらじゆくむら

[現在地名]湯津上村新宿

東流するほうき川左岸段丘上にあり、対岸は福原ふくわら(現大田原市)、東は上蛭田かみひるた村、西は片府田かたふた村。那珂川筋の大豆田おおまめだ(現黒羽町)と福原を結ぶ古道(福原道)沿いに、新しく開けた地で、村名もこれに由来する。天正一八年(一五九〇)の那須藤王丸資景知行目録(那須文書)に福原・上蛭田・下蛭田とともにみえる「中宿」は、当村の一部とされる。しかし「中宿」を佐良土さらど村内仲宿なかじゆくに比定する説もある。慶長八年(一六〇三)宮原みやはら八幡(現烏山町)宛の那須資晴願文写(同文書)には烏山からすやま城へ戻ることができたならば「新宿」へ鳥居を建立することが約されている。

新宿村
しんじゆくむら

[現在地名]神奈川区浦島うらしま町・入江いりえ一―二丁目・七島ななしま町など

東は生麦なまむぎ(現鶴見区)、西は神奈川宿・白旗しらはた村、北は西寺尾にしてらお村に接し、南は海に臨む。中世は子安こやす郷に属した。もと東西の子安村と一村で、土地も民家も入会っていた。元禄国絵図には新宿村とある。

近世は幕府直轄領。化政期(一八〇四―三〇)の「風土記稿」によれば東西の子安村と新宿村三村のうち新宿村には猟師が多く、極印船四七艘をもち、東西子安村漁戸の賦税も新宿村が扱った。また土産に干海鼠をあげ、江戸近くでの生産はこの辺りのみで、美味であるとする。明和元年(一七六四)新宿村、生麦村は俵物用の煎海鼠・干蚫などの仕入方を請負わされた。

新宿村
しんじゆくむら

[現在地名]結城市山川新宿やまかわしんじゆく

大木おおき村の南に位置。西・南には広大な山川沼があった。集落の中央を南北に走る道は、途中で何本にも分れるが、うち二本は大木に通じ、上山川かみやまかわ矢畑やばた鹿窪かなくぼを経て結城に達し、また一本は今宿いまじゆく古宿ふるじゆく新田方面へ延びている。戦国時代に山川氏が拠点としたところで、山川沼に突出した台地には山川城があった。天正一八年(一五九〇)九月、豊臣秀吉が山川晴重に安堵した所領のなかに、「百拾五貫六百文 堀めくり下やま あやつ」とある(山川修二文書)が、「あやつ」は村域の字綾戸あやと、「下やま」は隣接の今宿字下山しもやまで、地形などを考え合せると「堀めくり」は山川城廻りと判断され、戦国末期頃に山川城下の町場として整備され始めていた可能性がある。

新宿村
にいじゆくむら

[現在地名]東庄町新宿

鹿戸かのと村の東、利根川右岸に位置する。銚子道が通り、新宿河岸が置かれていた。こおり郷の内とされる。永禄九年(一五六六)頃と推定される九月二三日の千葉胤富判物(原文書)に「もりとよりいしで、新宿まて、大六てんくるわの衆、きたる廿七日ニ、舟ともを、大小ともにとらせ申へく候」とあり、千葉胤富は常陸との合戦に備え、利根川右岸の湊津に船の調達を命じている。

新宿村
しんしゆくむら

[現在地名]神川町新宿

神流かんな川右岸に位置し、南は渡瀬わたらせ村、対岸は上野国緑野みどの保美ほみ(現群馬県藤岡市)浄法寺じようほうじ(現同県鬼石町)。渡瀬の新宿として開かれたと伝えられる。田園簿によると高二五九石余、此永五一貫九五六文、幕府領。寛文八年(一六六八)上野前橋藩主酒井忠清の世子忠明(忠挙)領となるが(同九年「忠明領知目録」酒井家史料所引家蔵文書など)、天和元年(一六八一)忠明が前橋藩主となったため再び幕府領となる。

新宿村
あらじゆくむら

[現在地名]西方村本城ほんじよう

大沢田おおさわだ村の北、小倉おぐら川右岸の沖積平野にある。西方城のあったしろ山東麓で、中世以来の栃木と日光を結ぶ道に沿う。近世初頭、西方藩藤田氏の城下町整備にあたり成立し、西方郷一三ヵ村のなかでは比較的新しい村といわれる(西方記録)。慶安郷帳に村名がみえ、田二八〇石余・畑一四四石余、武蔵岩槻藩領。のち下総古河藩領を経て元禄一〇年(一六九七)旗本横山領となり幕末に至る。

新宿村
あらじゆくむら

[現在地名]常陸太田市新宿町

源氏げんじ川の沖積地にあり、北は増井ましい村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「新宿村」とあるが、寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)、享保一一年(一七二六)の御領内鎮守帳(江原忠昭氏蔵)は「荒宿村」と記す。「新編常陸国誌」によると文化二年(一八〇五)の戸数三〇。天保一三年(一八四二)の検地では田畠四五町余、分米四三二石余であった。

寛文三年の鎮守開基帳(彰考館蔵)によると、文治五年(一一八九)佐竹秀義勧請の諏訪上下大明神があり、文禄四年(一五九五)に豊臣秀吉によって五〇石の社領が許され、慶長七年(一六〇二)の伊奈備前守検地では別当の二方壱岐守に一六石の社領と三石余の屋敷地が与えられた。

新宿村
あらじゆくむら

[現在地名]朝日町新宿

白鷹しらたか山地北西麓にあり、東は中郷なかごう村・末吉良ばつきら村、南は東助巻ひがしすけのまき村。真言宗豊山派の愛宕山東永とうえい寺は空海を開基とし、大師作の尊像を安置すると伝える。また久保田くぼたの薬師堂には平安時代後期の地方仏師の作ではあるが、顔容が都ぶりの藤原様式の典型的な表情をみせる薬師如来立像が安置される。白鷹山地北西端に中世の岸氏の居城鳥屋とやもり館跡がある。近世には慶安二年(一六四九)以降松山藩領。延宝七年(一六七九)の名寄帳(今井文書)では高三一八石余、免五ツ一分五厘で、ほかに漆役や青苧代米を負担、末吉良・中郷両村から三七石余の入作があった。正徳二年(一七一二)の新宿村一人前高船賃米割合帳(同文書)では三一九石余。

新宿村
しんじゆくむら

[現在地名]館林市新宿一―二丁目・緑町みどりちよう一―二丁目・美園町みそのちよう

東・西・南の三方は小桑原こくわばら村、北は松原まつばら村・谷越やごえ村・成島なるしま村。村央を日光脇往還が南北に走る。当村はもと小桑原村に属していたが、慶長二年(一五九七)日光脇往還の新設により徐々に発展し分村したといわれる。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に「新宿小川原宿」とみえる。寛文郷帳に村名がみえ、畑方のみで二七四石五斗余。館林藩領。元禄郷帳では幕府領。のち館林藩領に復した。寛政一二年(一八〇〇)筆写の定式組合村々高帳(筑比地文書)では元禄郷帳に比して村高が二一三石余と減少している。村内の畑地が沿道の発展に伴い減少したためであろう。

新宿村
しんしゆくむら

[現在地名]吹上町北新宿きたしんしゆく・新宿

元荒川を挟んで榎戸えのきど村の北に位置し、自然堤防上に集落がある。北部は後背低湿地となっている。慶長三年(一五九八)若宮坊(東陽寺、現江南町)は京都聖護院門跡から「鎌塚新宿」など大里郡内で六ヵ所の年行事職を安堵されており(「聖護院門跡興意法親王御教書」「聖護院坊官岩坊澄孝達書」ともに御正山家文書)、新宿は当地のことと考えられるが、この史料は検討を要する。「風土記稿」によれば、埼玉郡おし大井おおい村に含まれ、正徳二年(一七一二)同村は太井おおい(現熊谷市)門井かどい棚田たなだ(現行田市)、新宿の四ヵ村に分村したという。大井四ヵ村と称し、忍藩領であったが、分村は同藩による私的なもので、郷帳類には大井村一村で高付されている(行田市の→大井村

新宿村
しんしゆくむら

[現在地名]蓮田市南新宿みなみしんしゆく西新宿にししんしゆく

白岡しらおか台地の西端にあり、元荒川の左岸に位置する。西は元荒川を隔てて中閏戸なかうるいど村、南はじよう村、北は白岡村(現白岡町)、東は小久喜こぐき(現同上)。元荒川に水除堤が築かれている。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿では同藩領で、田高九石余・畑高一〇一石余。延宝八年(一六八〇)の家数三三(うち本百姓二二)、人数一八二(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳によると村高は三一一石余と大幅に増加、ほかに五五石余の新田、野銭永二貫二三文、田畑一二町八反余の見取場がある。

新宿村
しんしゆくむら

[現在地名]清水町新宿

現町域の北端に位置し、集落は村内を横断する東海道に沿って形成される。村の東を駿豆国境を分かつさかい川が南流し、同川を挟んで、東は伊豆国三島宿、西は竹原たけはら(現長泉町)、南西は伏見ふしみ村。境川をまたいで千貫せんがん樋が架かり、千貫樋付近で東海道から分れ、北上して甲斐国に通じる道も通っていた。向宿ともいい、「修訂駿河国新風土記」によると、天正一九年(一五九一)に東海道の足柄あしがら路が廃され、三島路(箱根路)が開かれたことにより、伏見村のうちであった当地に竹原村から八、九戸が移って成立した村という。

新宿村
あらじゆくむら

[現在地名]川越市新宿町・旭町あさひちよう・新宿

脇田わきた村の南、大仙波おおせんば新田・きし村の西に位置し、新河岸川不老としとらず川の間の台地上に立地。田園簿に「新ケ宿村」とみえ畑高一四三石余、ほかに野銭永三二五文、川越藩領(幕末に至る)。検地は延宝六年(一六七八)に実施された(風土記稿)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二三九石余、反別畑八一町三反余、ほかに開発分高三六石余(反別畑一二町五反余)、武蔵野分高四石余(反別畑一町一反余)

新宿村
しんじゆくむら

[現在地名]谷和原村小絹こきぬ

寺畑てらはた村の南、鬼怒きぬ川東岸の微高台地上に位置。寛永七年(一六三〇)までは、鬼怒川は当村北部を東流して小貝こかい川に合流していた。「寛文朱印留」によれば下総関宿藩板倉氏領であったが、のち上坪かみつぼは平岡氏、中坪は窪田氏、下坪は建部氏の旗本三氏の知行地となり廃藩置県に及ぶ(北相馬郡志)。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には平岡与左衛門知行地二五六・九〇八石、建部徳次郎知行地一八七・三六石、窪田勘右衛門知行地一一三・三二三石、天領〇・五二石があった。

新宿村
しんじゆくむら

[現在地名]館山市長須賀ながすか

上野原うえのはら村の東に位置する。長須賀ながすか村の持添で「万石騒動実録」に村名がみえ、高一九六石余、北条藩領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)、元文村高帳では幕府領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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