吹上町(読み)ふきあげちよう

日本歴史地名大系 「吹上町」の解説

吹上町
ふきあげちよう

面積:九六・九九平方キロ

薩摩半島のほぼ中央の西側に位置する。東は鹿児島市、北は日吉ひよし町・松元まつもと町、南は金峰きんぽう町、西は東シナ海に面する。鹿児島市との境には南北に走る山地がある。そこを源流とする和田わだ川は南流して日置郡境の万之瀬まのせ川に注ぎ、伊作いざく川・小野おの川・永吉ながよし川は西流して東シナ海に注ぎ、その流域に耕地が広がる。全体として東から西へ緩傾斜し山地・台地・平野と変化し、西端は吹上浜に達する。天然の恵みを受け、湯之浦ゆのうらには温泉が湧出し、ひなびた温泉地となっている。また南東の山地では助代すけしろ鉱山湯之元ゆのもと金山などの鉱山もあり、明治から昭和初期まで賑いをみせたが、現在は廃鉱となっている。国道二七〇号は伊作筋の一部を含み南北に延びている。

吹上浜砂丘の中央にある当町は北九州からの文化を早く受入れた。伊作川下流域には旧石器時代の遺跡があり、今田の岩之元いまだのいわのもと遺跡で台形石器や細石刃核などが発見された。縄文時代に入ると、入来の塚ノ越いりきのつかのこえ遺跡で隆帯文土器や石鏃などの草創期の遺物が多く発見され、早期には海岸近くだけでなく和田の今木場いまこば遺跡などのように山間部にも遺跡が残る。前期になると永吉の黒川くろかわ洞穴で生活が始まり、長期にわたって生活拠点となった。

吹上町
ふきあげまち

面積:一五・〇四平方キロ

県の中心よりやや北東に位置し、東は鴻巣市・行田市、北は行田市、西は熊谷市および荒川を挟んで大里郡大里村、南も荒川を挟んで比企郡吉見よしみ町。荒川とその支流により形成された自然堤防とその後背低湿地帯からなる。荒川扇状地東端の湧水地帯で、地下水が噴上がり掘抜井戸も多かった。元荒川の上流部にあたる北西端は標高約一九メートル、下流部の南東端で約一六メートル。旧市街地は東西に蛇行する元荒川の自然堤防上に発達し、川の北側を国道一七号と上越新幹線が通る。中央部を南東から北西へJR高崎線が通り、吹上駅がある。

吹上町
ふきあげちよう

[現在地名]伊勢市吹上一―二丁目

宮川の一派流が勢田せた川に入る所にあり、岩淵いわぶち町の北にある。天福二年(一二三四)正月二〇日の度会広光処分状(光明寺文書)に「壱段、箕曲郷世木村即居住」に続けて「弐段、同郷同村字吹上居住西並」と記され、吹上の地は世木せぎ村に含まれていたことがわかるが、世木村の境界については不詳である。当地にはかつて光明こうみよう寺があり、吹上光明寺あるいは世木光明寺とよばれた(→光明寺。嘉暦元年(一三二六)一〇月日の僧恵観重申状案写(光明寺古文書)などによれば「法常住院領内吹上畠地二段」などをめぐって光明寺の僧恵観と法常住院の円然とは二年ほど争っている。

吹上町
ふきあげまち

[現在地名]岩内郡岩内町字大和やまと・字御崎みさき

明治初年(同二年八月―九年の間)から同三三年(一九〇〇)まで存続した町。岩内市街のうちで、稲穂崎いなほさき町の西に位置する。明治九年の大小区画沿革表に吹上町とある。同二一年の戸数七二・人口三六〇、同二四年の宅地は一町余(岩内古宇二郡誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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