児玉郡(読み)こだまぐん

日本歴史地名大系 「児玉郡」の解説

児玉郡
こだまぐん

面積:一六二・五五平方キロ
美里みさと町・児玉こだま町・神泉かみいずみ村・神川かみかわ町・上里かみさと

近世の郡域は現在の小山こやま川左岸を中心に美里町北部、南東部を除く児玉町、神泉村北部、北部を除く神川町、および東部を除く本庄市に及び、北は賀美かみ郡と利根川を境に上野国、東は榛沢はんざわ郡、南は那賀なか郡・秩父郡、西は神流かんな川を境に上野国に接していた。明治二九年(一八九六)郡制施行に伴う郡の統廃合により賀美郡・那珂なか郡が廃されて児玉郡に編入され、郡域は東は大里郡、南は秩父郡、西から北は神流川およびからす川・利根川を境に群馬県に接することになった。なお古代・中世の郡域はほぼ近世に近いと考えられるが、現本庄市小島おじまなどの一帯は「和名抄」にみえる賀美郡小嶋郷に比定される。

〔古代〕

「国造本紀」にみえる知知夫国造の支配領域に属していたと思われるが、北の賀美郡、南の那珂郡と同一勢力のもとにあったと推定されている。古墳時代の和泉期から鬼高期にかけての集落が密集し、神川町の青柳あおやぎ古墳群、児玉町の長沖ながおき古墳群、同町から美里町にかけての生野山なまのやま古墳群など六―七世紀の群集墳も多く、当地は早くから開けた人口密集地で渡来人も多く居住していたとみられる。「和名抄」東急本は郡名を「古太万」と訓じ、諸本に異訓・異表記はない。同書高山寺本には振太ふりた岡太おかた草田くさた大井おおいの四郷が載る。本庄市さかえ南大通り線内みなみおおどおりせんない遺跡では「武蔵国児玉郡草田郷戸主大田部身万呂」と陰刻された紡錘車が発見されている。現神川町みやに所在する金鑽かなさな神社は、「延喜式」神名帳にみえる児玉郡の名神大社金佐奈カナサナノ神社」に比定される。社殿は拝殿のみで、背後の山を神奈備山とする古い形式を残している。伝承によると製鉄もしくは鍛冶集団の信仰があり、渡来人が関係していたともいわれる。貞観四年(八六二)六月「正六位上金佐奈神」は官社に列し、同年八月従五位下を授与されている。神流川扇状地にはかつて条里遺構が広く残されており、本庄市の四方田しほうでん東富田ひがしとみだ・西富田、児玉町の吉田林きたばやし入浅見いりあざみ、美里町の十条じゆうじようなどに顕著であった。この地域を流れる九郷くごう用水には古代開削説がある。天平一九年(七四七)九月二六日の聖武天皇勅旨(東大寺要録)によれば、聖武天皇は奈良東大寺に一千戸の食封を施入しているが、そのなかに児玉郡五〇戸が含まれている。承平三年(九三三)児玉郡阿久原あぐはら(現神泉村)などを含む秩父牧が勅旨牧に指定された。現群馬県宮城みやぎ金剛こんごう寺所蔵の承安二年(一一七二)五月二一日の年紀をもつ懸仏銘に「願主武州児玉 称名寺善阿弥斎」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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