志麻郷(読み)しまごう

日本歴史地名大系 「志麻郷」の解説

志麻郷
しまごう

和名抄」にみえるが高山寺本・刊本とも訓を欠く。刊本は越中国新川郡志麻郷を「之万」と訓ずるのでこれに従う。

天元三年(九八〇)二月二日付の某寺資財帳(金比羅宮文書)に「丹波国」として「志万郷二町余」とみえる。その後元暦二年(一一八五)正月一九日付の文覚起請文(神護寺文書)で知られるように、当郷は吉富よしとみ庄となり刑部おさかべ郷と同様に推移する。

郷域について「日本地理志料」は「今有島村、属桑田郡、亘長谷、萱野、大野、上司、和泉、静原、三野、小淵、肱谷、向山、音海、樫原諸邑、称吉富、是其域也」とし、「大日本地名辞書」は「今吉富村八木村是なり、保津川(大堰川)西岸にして、桑田郡小川郷の北に接す」と記す。地理志料は現北桑田郡美山みやま町の由良川沿いの地域に比定しているが妥当ではない。

志麻郷
しまごう

「和名抄」所載の郷。訓は東急本に「之万」とある。同名の郷は美濃国大野おおの郡・同賀茂かも郡、若狭国遠敷おにゆう郡、丹波国船井ふない郡・同何鹿いかるか郡、筑前国志麻郡などに知られる。天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用帳(東南院文書)に郷名がみえ、越中国の奈良東大寺封戸一五〇戸のうち五〇戸が当郷に設置された。志麻郷封戸から東大寺への貢進物は、調綿三〇六屯、庸綿一五〇屯八両、中男作物胡麻油二斗五升、租穀(数量不明)などである。

志麻郷
しまごう

「和名抄」所載の郷。郷域は現揖斐いび揖斐川いびがわ町の南部、揖斐川東岸のしま福島ふくしまを遺存地名として、清水きよみず地区一帯に比定するのが一般的である(「濃飛両国通史」「揖斐郡志」「岐阜県史」など)。地区は揖斐川にかす川が流れ込む辺りで、古来河道の変化が激しく、島・福島以外にも島に縁のある地名が揖斐川両岸に広く点在している。当郷はこうした地理環境によって名付けられ、郷域は清水地区にとどまらず、隣接する揖斐川東岸の上・下流部、または対岸部に広がる可能性がある。「揖斐郡志」は現揖斐郡大野町公郷くごう、「日本地理志料」は現揖斐川町上野うえのおよび岡島おかじまを含めている。

志麻郷
しまごう

「和名抄」所載の郷。志麻は島の意で、川沿いの地を示し、郡内でこの名にふさわしい地形的特徴をもった場所として木曾・飛騨両川が合流する現美濃加茂市下米田しもよねだ地区が注目され、「大日本地名辞書」や「濃飛両国通史」「美濃国加茂郡誌」「美濃加茂市史」などが同地に比定している。しかし同地区は米田郷の比定地ともされ、「濃飛両国通史」以下は下米田地区の南部小山こやまいまから牧野まきのにかけての地域としている。

志麻郷
しまごう

「和名抄」東急本は「志摩」とする。天平一九年(七四七)の大安寺伽藍縁起流記資財帳に「乎入郡嶋山佰町、四至、四面海」とみえる。これは現大島半島のこととされ、当郷の所在地と考えられている。中世にも志麻郷の系譜をひく志万しま郷があり、文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に「国領」という朱書を付して「志万郷百卅九町五反三百卅歩」とみえる。

志麻郷
しまごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「志」の一字を記し訓を付さない。「日本地理志料」は麻を補い「志麻」とし、宝亀五年(七七四)三月一二日の勘籍(正倉院文書)に「備後国神石郡志麻郷戸主物部水海」とある志麻郷に比定する。そして神石郡の下に加米志の三字を注すべきところ、加米の二字が脱し、志のみ残ったとの説はいまだ精ならずとする。

志麻郷
しまごう

「和名抄」にみえるが、高山寺本・刊本とも訓を欠く。同書は越中国志麻郷を「之万」と訓じる。郷域は由良川左岸、郡の西南部(現綾部市)

志麻郷
しまごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「和名抄」の越中国新川にいかわ郡志麻郷の訓「之万」(東急本)、筑前国志麻郡の傍訓シマ(九条家本「延喜式」民部上)により「しま」と読む。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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