新川郡(読み)にいかわぐん

日本歴史地名大系 「新川郡」の解説

新川郡
にいかわぐん

越中国の東半部にあたり、新河とも表記された。東はさかい川および白鳥しらとり山・朝日あさひ岳・白馬しろうま岳などの山々で越後国、唐松からまつ岳・はり岳などの後立山連峰の稜線で信濃国と接する。南は三俣蓮華みつまたれんげ岳・大多和おおたわ峠などの稜線で飛騨国、西は婦負ねい郡と接する。北は富山湾に面し、飛騨山脈から発する急流の常願寺川・早月はやつき川・黒部川などが注いだ。江戸時代の郡域は現在の下新川郡三町、黒部市・魚津市・中新川郡三町村・滑川なめりかわ市・上新川郡大山おおやま町のほか、同郡大沢野おおさわの町の大部分、富山市と婦負郡婦中ふちゆう町の一部にあたる。

〔古代〕

郡名は「万葉集」巻一七に、収める天平一九年(七四七)四月二七日の「立山賦」(大伴家持作歌)の注記に「此立山者、有新川郡也」とあるのが早い。訓は同賦のなかに「尓比可波」とあり、「和名抄」東急本の国郡部は「迩布加波」とする。「新川」の郡名は越中国以外にみえないが、奈良時代の「新」字は、「万葉集」が「新室」(巻一一)を「尓比牟路」(巻一四)とも表記しており、ここではニヒカハの読みを採用する。「続日本紀」大宝二年(七〇二)三月一七日条に「分越中国四郡属越後国」とみえるが、これらの諸「郡」は前年の大宝令の規定によって成立したもので、それ以前は「評」と呼称された。越中国内の当郡も礪波評などとともに新川評として存立した可能性が高い。「万葉集」巻一七には、天平二〇年春、大伴家持が出挙のため越中諸郡を巡行したさい、新川郡の延槻はいつき(早月川)を渡った時の歌が載っている。「和名抄」によると、郡内の郷として長谷はせ志麻しま石勢いわせおおやぶ川枯かわかれ丈部はせつかべ車持くるまもち鳥取ととり布留ふる佐味さみの一〇郷がみえ、郡の等級は「養老令」に規定する中郡に相当する。なお、高山寺本は川枯・丈部・車持・鳥取の四郷について「今亡」と注記し、衰退した郷名を伝える。上記のうち大・丈部・佐味は庄名にも現れ、奈良東大寺領では天平宝字三年(七五九)一一月一四日の東大寺越中国諸郡庄園総券(東南院文書)に丈部村・大藪野、天平神護三年(七六七)五月七日の越中国司解(同文書)に丈部庄・大庄、奈良西大寺領では宝亀一一年(七八〇)一二月二五日の西大寺資財流記帳(内閣文庫蔵)に佐味庄がみえる。これらの庄名が郷名に由来したとすれば、他の郷名も奈良時代にすでに成立していた可能性が高い。川枯は、神護景雲元年(七六七)一一月一六日の新川郡大村墾田地図(正倉院蔵)に「従郡川枯往道」とみえ、新川郡家より川枯郷へ行く道を示している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報