八木村(読み)やぎむら

日本歴史地名大系 「八木村」の解説

八木村
やぎむら

[現在地名]安佐南区佐東さとう町八木

緑井みどりい村の東北、太田おおた川西岸に集落が位置するが、村域は阿武あぶ(五八六・四メートル)を中心に、北の太田川南岸まで含まれる。西は筒瀬つつぜ(現安佐北区)。東は太田川対岸にも開ける。村の南東部で太田川本流(新川)からふる川が西へ分岐する。しん川と古川で挟まれた「ヒハラ」は温井ぬくい村に続き、古川の西側は緑井村に続く。雲石路は緑井村から当村へ入り、八木峠を経て、太田川を渡り上下両中野なかの(現安佐北区)の南端をかすめて可部かべ(現安佐北区)に至る。

当村の開発は古く、中田なかた公園下手の小丘陵斜面で縄文早期の石槍が、じよう山丘陵の伊勢いせ神社西端崖部で縄文後期の土器片が、八木が丘やぎがおか団地南方宅地造成地で磨製石斧が採集されている。弥生時代遺跡も多い。前期古墳は光広みつひろ神社境内にあったという光広古墳と足谷あしがたに古墳群の上方に箱式石棺群があるにすぎないが、後期古墳では横穴式石室を露出していたが消滅した大畠古墳、二基の円墳からなる天井林てんじようばやし古墳群、光広神社上方の四基からなる足谷古墳群、緑が丘みどりがおか住宅北側山林の古墳四基(推定)からなる小原こばら古墳群、同住宅上手の山林中にあり二基の円墳からなる小原山こばらやま古墳群などがあり、須恵器長頸壺・高坏・坏蓋・土師器の高坏、鉄刀片・鉄製環・耳環・勾玉・管玉などを出土している。

八木村
やぎむら

[現在地名]橿原市八木町一―三丁目・南八木町一―三丁目

耳成みみなし(一三九・七メートル)畝傍うねび(一九九・二メートル)の中間、なか街道(下ツ道)初瀬はせ街道(横大路)の交差地に立地。初瀬街道以南が八木村で、以北は北八木村。「大乗院雑事記」文明一四年(一四八二)一〇月三〇日条に「矢木郷」で合戦があったと記すのは、当地のことであろう。また西大寺田園目録に「高市郡北郷廿六条三里廿八坪内四段東辺、宝治二年八月十日、八木姉子範恩内房寄之」とみえる。連歌師宗長の「宗長手記」大永二年(一五二二)一〇月条に「翌日橘寺一見して、大和の府八木に一宿」とあるなど、八木は奈良盆地南部の交通・経済の中心地として繁栄、「八木市」を開設し糖売座・駄賃座・鳥餅座があった。

「大乗院雑事記」には「矢木座」がみられるが、同座を矢木中買座とも駄賃座ともいい、文明元年一二月二六日条には「矢木中買衆与符坂本座衆相論事在之、自矢木座荷共押留之、応永十二年文在之間、十市・楢原・箸尾方ニ仰遣之、矢木座衆彼面々披官故也」とあり、矢木座は興福寺大乗院の座であった。

八木村
やぎむら

[現在地名]八木町字八木

現八木町の最南端に位置し、東は大堰おおい川を挟んで西田にしだ村に対する。北部には東から南広瀬みなみひろせ村・大藪おおやぶ村・八木島やぎしま村が連なり、西は柴山しばやま村、南は桑田郡(現亀岡市)。村の西半から南にかけては山地、東部には平野がある。村の東を京街道(山陰道)が通り、貝原益軒の「西北紀行」にも街道沿いに京都・おいさかしの村・亀山かめやま川関かわぜき(現亀岡市)を経過して「八木村」と記す。

少なくとも鎌倉時代以前には大堰川が当村の北半部をほぼ西から東に貫流していたと考えられる。つまり現在の人家密集地域は当時河床かその近辺であったわけで、八木村の中心地域は現在社寺・墓地などが並ぶ西側山麓部、現在本郷ほんごうと通称する地域であった。

八木村
やぎむら

[現在地名]増田町八木

成瀬なるせ川が皆瀬みなせ川に合流する地点の北に位置し、増田村の南西にある。北に横手盆地が開ける。北部の水田から縄文晩期の土器片や石器類が採集される。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に増田のうち八木村と記載され、享保一四年(一七二九)の平鹿郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「元禄、八木村但誤新田出、其外諸帳不出」とある。

「雪の出羽路」に「八木村に古柵あり、そのいにしへ小笠原義冬の居城跡也といへり。

八木村
やぎむら

[現在地名]明石市大久保町八木おおくぼちようやぎ

谷八木たにやぎ川の河口の西側に位置し、播磨灘に面した海辺沿いの村。東は谷八木村。西浦辺組に所属。治暦二年(一〇六六)因幡国在庁官人船木範保(魚住景宗の祖)が住吉太神宮下司職に補任され、魚住うおずみ庄「八木」など三邑を賜ったという(幻雲文集)。応永二八年(一四二一)二月二一日のしん大夫檀那譲状(肥塚文書)広峯ひろみね神社(現姫路市)の檀那の居住地として「やき谷」、文明一四年(一四八二)八月一〇日の丹後・但馬両国檀那村付注文(同文書)に同じく「明石之やきの村」とみえる。

八木村
やぎむら

[現在地名]佐倉市八木

高崎たかさき村の東に位置し、千葉佐倉道が通る。古くは高崎村と一村であったといい(印旛郡誌)、天正一九年(一五九一)二月一四日の下総国印東庄高崎村御縄入水帳(佐倉市史)に入会地として八木地がみえる。慶長一七年(一六一二)に高崎村と同様、青山幸成領になったとみられる。「寛文朱印留」に佐倉藩領として村名がみえ、以後幕末まで同藩領。元禄七年(一六九四)の村高百姓并家数寺社書上帳(戸村家文書)によれば高四五〇石余・亥ノ新田高八斗余、百姓林三九ヵ所、溜一・用水堰一、本百姓二七・水呑一五。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(同文書)によれば家数四四(本百姓のみ)・人数一八〇、馬三五。

八木村
やぎむら

[現在地名]銚子市八木町

親田おやだ村の西にあり、磯見いそみ川が流れる。慶長七年(一六〇二)の検地で九三町八反余・高九三〇石余が打出されたという(天保三年「入用控」平野家文書)。同一八年の木曾氏旧領書上(岩井家文書)には八木村九〇三石余とある。また同六年から青山領であった(外口家文書)。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)に八木之村とみえ、源兵衛二本・新七郎一本の柑子木を植えていた。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一千六〇石余で旗本松平・渡辺・高井・榊原・久貝領。

八木村
やつぎむら

[現在地名]旭町坂本さかもと

鼠原ねずんばら村の東、都川つかわ川の支流八ッ木川に沿う。北は都川村、南は安芸国土橋つちはし(現広島県芸北町)。古高三六石余、寛永一四年(一六三七)の検地高四六石余(明治四年万手鑑)正保国絵図・寛文朱印留に村名はみえない。享和元年(一八〇一)現広島県山県やまがた加計かけ町の屋号隅屋(佐々木)家によって、鑪および鍛冶屋が各一ヵ所開かれた(加計町史)。その後何回も地元資本による鑪が設けられた。

八木村
やぎむら

[現在地名]近江八幡市八木町

中小森なかこもり村の北にあり、北東は土田つちだ村。土田村の枝郷として江戸時代初期に成立した。寛永二〇年(一六四三)同村の領主であった山城淀藩主永井尚政は「土田村之内悪所荒不作竿違の田地」を開墾するため、浅井あざい下八木しもやぎ(現東浅井郡びわ町)の百姓を移住させ、正保二年(一六四五)には高一六一石余が開かれ(延宝七年「万控帳」土田共有文書)、明暦四年(一六五八)に正式に検地が行われ、正保二年次の高と同高で分村した(八木共有文書)。寛文九年(一六六九)永井氏の移封により丹後宮津藩領となり、延宝八年(一六八〇)上知となった。

八木村
はちぼくむら

[現在地名]蘇陽町八木

川の支流二津留ふたづる川沿いにあり、明治九年(一八七六)の合併により成立した村名。東はかしわ村、西は二津留村・塩出迫しおいでさこ村、南はいま村に接する。近世には上流から八矢はちや村・神木かみのき村と並ぶ。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に「一所はちや二百文 まめ一斗」とある。

八木村
やぎむら

古代三原郡やぎ(和名抄)の郷名を継承したとみられ、三原川中流域右岸一帯に比定される。元久二年(一二〇五)四月の淡路国司庁宣(護国寺文書)に「東神代八木両郷」とみえ、先年一宮(現津名郡一宮町)と二宮(大和大国魂神社)の法華・桜両会舞楽料田とした東神代ひがしくましろ・八木両郷の荒野に代えて、榎列えなみ・西神代郷の荒野一〇町を開発し料田に充てるよう命じられている。

八木村
やぎむら

[現在地名]大野町公郷くごう 八木

公郷村の南東にあり、同村の枝郷であった。慶長郷帳正保郷帳では公郷村の内に含まれていた。元禄郷帳に村名があり、高三五九石余で大垣藩領。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば田二三町二反余・畑二町七反余、家数四五・人数二四一、馬一五、農間に大工・鍛冶各一。神社は天満社・若宮八幡宮、寺は西光さいこう寺。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報