大伴家持(読み)おおとものやかもち

精選版 日本国語大辞典 「大伴家持」の意味・読み・例文・類語

おおとも‐の‐やかもち【大伴家持】

奈良時代の万葉歌人。旅人(たびと)の子。地方、中央の諸官を歴任。歌は繊細、優美を基調とし、すぐれた技巧と抒情性を示し、万葉末期を代表する。「万葉集」中、歌数が最も多く、その編纂者の一人といわれる。従三位中納言。没後、藤原種継暗殺事件に連座した罪で除名。延暦二五年(八〇六)復位。延暦四年(七八五)没。

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デジタル大辞泉 「大伴家持」の意味・読み・例文・類語

おおとも‐の‐やかもち〔おほとも‐〕【大伴家持】

[718ころ~785]奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。旅人の子。中納言。越中守・兵部大輔ひょうぶのたいふなど地方・中央の諸官を歴任。万葉集編纂者へんさんしゃの一人といわれる。万葉末期の代表的歌人で、歌数も最も多い。

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改訂新版 世界大百科事典 「大伴家持」の意味・わかりやすい解説

大伴家持 (おおとものやかもち)
生没年:717-785(養老1-延暦4)

奈良時代の政治家,歌人。安麻呂の孫,旅人の子。橘諸兄政権下に内舎人として出身し,745年(天平17)1月,正六位上から従五位下に叙される。この昇叙の記事が《続日本紀》に家持の名の見える最初である。746年3月宮内少輔,同年6月越中守に任ぜられ,751年(天平勝宝3)7月少納言となり帰京した。754年4月兵部少輔となり,このとき防人の事務をつかさどる。757年(天平宝字1)6月兵部大輔,同年12月右中弁,758年6月には因幡守となった。《万葉集》最末尾の歌であり,また家持作として知られる最後の歌でもある〈新(あらた)しき年の始の初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)〉は翌年1月1日,因幡国庁で降りしきる雪を見ながら国郡の司等を招いた宴席で作られた。その後信部大輔となったが,763年恵美押勝藤原仲麻呂)を害せんとする事件に連座して薩摩守に左遷された。その後,大宰少弐,民部少輔,相模守,伊勢守などを経て,780年(宝亀11)2月参議に至り,翌年4月右京大夫兼春宮大夫,11月従三位となった。782年(天応2)閏1月氷上川継の事に座して現任を解かれたが,5月参議春宮大夫に復し,6月陸奥按察使鎮守将軍を兼ねて多賀城に赴き,翌年2月持節征東将軍に任命された。785年8月28日多賀城に没する。死後20余日にしてまだしかばねを葬らないうちに,藤原種継射殺事件にかかわりありとして除名され,息子永主等は隠岐に流された。このとき家持の遺骨もともに配流の憂き目にあったろうともいう。806年(大同1)3月,勅によって罪科を除かれ,本位に復された。

 家持は江戸前期の国学者契沖の研究以来《万葉集》の最終的な整理編纂者に擬せられており,それは今日ほとんど疑いないものとされている。特に巻十七以降は,家持の歌による日録の体裁をなしている。集中,群をぬいて作品数も多く(長歌46,短歌431,旋頭歌1,連歌1),その作歌過程は大別して3期に区分される。1期は年次の分かっている歌の初見とされる〈初月(みかづき)の歌〉の見られる733年(天平5)から越中守に任命されるまでで,この時期は後に妻となった坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)(大伴坂上大嬢)をはじめとして多くの女性と贈答歌を交わしている。2期は越中守在任時代で,作歌意欲も旺盛であり,いわゆる〈北越三賦〉をはじめとして大伴池主との往復書簡・歌,〈陸奥国より金を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌〉(巻十八)等多くの大作をものし,自然,人事への新しい眼を開いている。またこの時期には着任早々にして弟の死に遭遇し,みずからも死に瀕する大患にかかるなど,かつてない苦悩を体験した。3期は帰京後,最後の歌に至るまでで,藤原氏の勢いに押されながら次第に衰退する大伴氏の氏上(うじのかみ)としての自己を保ちつつ,繊細にして哀愁を帯びた独自の歌風を完成した。〈わが屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも〉〈うらうらに照れる春日に雲雀あがり情(こころ)悲しも独りしおもへば〉(ともに巻十九)。これらの歌はすでに平安朝和歌の到来を予見させるものとなっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大伴家持」の意味・わかりやすい解説

大伴家持
おおとものやかもち
(717/718―785)

『万葉集』末期の代表歌人、官人。旅人(たびと)の子。少年時の727年(神亀4)ごろ父に伴われ大宰府(だざいふ)で生活し、730年(天平2)帰京。737年ごろ内舎人(うどねり)。745年(天平17)従(じゅ)五位下。翌3月宮内少輔(くないのしょうふ)。7月越中守(えっちゅうのかみ)として赴任した。751年(天平勝宝3)少納言(しょうなごん)となって帰京。754年兵部(ひょうぶ)少輔。さらに兵部大輔、右中弁を歴任したが、758年(天平宝字2)因幡守(いなばのかみ)に左降された。以後、信部大輔(しんぶたいふ)、薩摩守(さつまのかみ)、大宰少弐(しょうに)などを歴任。長い地方生活を経て770年(宝亀1)6月民部少輔、9月左中弁兼中務(ちゅうむ)大輔、10月、21年ぶりで正五位下に昇叙した。諸官を歴任して781年(天応1)4月右京大夫(うきょうのたいふ)兼春宮(とうぐう)大夫となり、785年(延暦4)4月中納言従三位(じゅさんみ)兼春宮大夫陸奥按察使(みちのくのあんさつし)鎮守府将軍とみえ、同年8月没。没時はおそらく任地多賀城(宮城県多賀城市)にいたと思われる。年68または69歳。名門大伴家の家名を挽回(ばんかい)しようとして政争に巻き込まれることが多く、官人としては晩年近くまで不遇で、死後も謀反事件に連座して806年(大同1)まで官の籍を除名されていた。

 作品は『万葉集』中もっとも多く、長歌46、短歌425(合作1首を含む)、旋頭歌(せどうか)1首、合計472首に上る。ほかに漢詩1首、詩序形式の書簡文などがある。作歌活動は、732年ごろから因幡守として赴任した翌年の759年までの28年間にわたるが、3期に区分される。第1期は746年越中守となるまでの習作時代で、恋愛歌、自然詠が中心をなす。のちに妻となった坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)をはじめ、笠女郎(かさのいらつめ)、紀女郎(きのいらつめ)らとの多彩な女性関係と、早くも後年の優美、繊細な自然把握がみられる。第2期は越中守時代の5年間で、期間は短いが、望郷の念を底に秘めつつ、異境の風物に接し、下僚大伴池主(いけぬし)との親密な交遊を通し、さらには国守としての自覚にたって、精神的にもっとも充実した多作の時代である。第3期は帰京後から因幡守となるまでで、作品数は少なく宴歌が多いが、万葉の叙情の深まった極致ともいうべき独自の歌境を樹立した。『万葉集』の編纂(へんさん)に大きく関与し、第3期の兵部少輔時代の防人歌(さきもりうた)の収集も彼の功績である。長い万葉和歌史を自覚的に受け止めて学ぶとともにこれを進め、比類のない優美・繊細な歌境を開拓するが、この美意識および自然観照の態度などは、平安時代和歌の先駆をなす点が少なくない。

[橋本達雄]

ふり放(さ)けて三日月見れば一目見し人の眉引(まよびき)思ほゆるかも(第1期)
うらうらに照れる春日に雲雀(ひばり)あがりこころ悲しも独りし思へば(第3期)

『山本健吉著『日本詩人選5 大伴家持』(1971・筑摩書房)』『北山茂夫著『大伴家持』(1971・平凡社)』『橋本達雄著『王朝の歌人2 大伴家持』(1984・集英社)』


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朝日日本歴史人物事典 「大伴家持」の解説

大伴家持

没年:延暦4.8.28(785.10.5)
生年:生年不詳
奈良時代の官人で歌人。大納言安麻呂の孫。旅人の子。書持の兄。天平10(738)年内舎人で,11年叔母坂上郎女やその娘で妻となる坂上大嬢と歌を贈答した。12年聖武の東国行幸に内舎人として従った。15~16年恭仁京を称える歌や故安積親王を「わが王」と傷む挽歌を詠んだ。17年従五位下に昇り,18年越中守となり赴任。天平勝宝1(749)年陸奥国からの産金を祝う歌中に「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍」の詞を詠む(『万葉集』巻18)。3年帰京して少納言となり,このころ左大臣橘諸兄家の宴によく参加する。兵部少輔在任中の7年,防人たちの歌を書き留めた。8年藤原仲麻呂専権下に同族古慈斐が拘禁され,「族を喩す歌」を詠んで一族に自重を求めた。天平宝字1(757)年兵部大輔となり,親しかった橘奈良麻呂(諸兄の長男)の変ののち因幡守に遷された。6年信部(中務)大輔となるが,このころ藤原良継らと図った反仲麻呂計画が露見,8年には薩摩守とされ,恵美押勝の乱(764)の際には活躍できなかった。宝亀1(770)年再び京官の民部少輔となり,左中弁や衛門督などを経て,11年には参議。天応1(781)年右京大夫,皇太子早良親王の春宮大夫を兼ね,次いで左大弁となり,従三位に昇った。延暦1(782)年には氷上川継謀反事件に関連して解官,早く許されて参議春宮大夫に復し,のち兼陸奥按察使鎮守将軍となる。2年には中納言,3年持節征東将軍に任じる。4年中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守将軍として陸奥国の建郡を実現。没直後の埋葬前に藤原種継暗殺事件が起こり,首謀者とされた家持は除名のうえ,子永主も隠岐(島根県)に流された。大同1(806)年桓武天皇没時に従三位に復された。『万葉集』の編者とされ作歌は多いが,同集最後の天平宝字3(759)年の歌ののちは歌わぬ人といわれる。政治的変動のなか,旧大族大伴氏の衰勢はとどめられなかった。<参考文献>尾山篤二郎『大伴家持の研究』,北山茂夫『大伴家持』

(佐藤信)

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百科事典マイペディア 「大伴家持」の意味・わかりやすい解説

大伴家持【おおとものやかもち】

奈良時代の政治家,歌人。大伴旅人の子。坂上郎女は叔母。没落の途にある大伴家の家長として苦しんだ。746年越中守として赴任,751年少納言として帰京。少年のころから作歌し,759年までの歌が残っている。《万葉集》の編集者と目され,収録作品も最も多く長短歌合わせて約480首。繊細な抒情歌に特色がある。
→関連項目大伴氏大伴坂上郎女笠郎女三十六歌仙富山[県]藤原種継

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大伴家持」の意味・わかりやすい解説

大伴家持
おおとものやかもち

[生]養老2(718)?
[没]延暦4(785).8.28. 陸奥
奈良時代の政治家,歌人。三十六歌仙の一人。旅人 (たびと) の長子。書持 (ふみもち) の兄。その妻坂上大嬢 (さかのうえのおおいらつめ) は大伴坂上郎女 (いらつめ) の娘。天平 18 (746) 年越中守,天平勝宝3 (751) 年少納言となり帰京,同6年兵部少輔,防人 (さきもり) のことなどを司る。同8年の左大臣橘諸兄 (もろえ) の致仕,古慈悲の乱,翌年の奈良麻呂の変など,大伴一族の命運にかかわる大事件の連続するなかで,彼は局外者の立場にとどまっていたらしい。その後地方官などを歴任,宝亀 11 (780) 年参議となり右大弁を兼ね,いったん事に座して官を奪われたがやがて復し,延暦2 (783) 年中納言に進み,翌々年中納言従三位,春宮大夫,陸奥 (みちのく) 按察使鎮守府将軍で没した。没後も暗殺事件に連座して遺骸のまま追罰されるなど,名門出身の政治家としては不遇であった。歌人としては文学史上きわめて重要な位置を占め,『万葉集』に長歌 46首,短歌 432首,旋頭歌1首の,万葉歌人中最大の量を残した。『万葉集』そのものの編纂に深く関与していたと考えられ,哀愁をたたえた抒情歌には独自のものがある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大伴家持」の解説

大伴家持
おおとものやかもち

716/717/718~785.8.28

奈良時代の公卿・歌人。姓は宿禰(すくね)。父は旅人(たびと)。弟に書持(ふみもち)がいる。叔母大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の女坂上大嬢(おおいらつめ)は正妻。天平年間は内舎人(うどねり)として聖武天皇に近侍し,従駕歌,安積(あさか)皇子への挽歌などを作る。746年(天平18)越中守として赴任,数々の作品を残す。帰京後は衰えつつある大伴氏の首長として一族の団結と復権に尽くしたが,763年(天平宝字7)藤原仲麻呂を除こうとして薩摩守に左遷される。780年(宝亀11)参議,翌年従三位。782年(延暦元)には氷上川継(ひかみのかわつぐ)の変に連坐して解官されたが,許されて中納言に昇り,征東将軍在任中に没した。直後,藤原種継(たねつぐ)暗殺事件により除名されたが,806年(大同元)復位した。「万葉集」編纂に大きな役割をはたしたとみられる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大伴家持」の解説

大伴家持 おおともの-やかもち

718-785 奈良時代の歌人,公卿(くぎょう)。
養老2年生まれ。大伴旅人(たびと)の長男。妻は大伴坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)。宝亀(ほうき)11年参議となる。天応元年春宮大夫(とうぐうのだいぶ),従三位にすすみ,2年陸奥按察使(むつあぜち),延暦(えんりゃく)2年中納言となった。「万葉集」の編者として,最多数の和歌(長歌46首,短歌432首など)をのこした。三十六歌仙のひとり。延暦4年8月28日死去。68歳。死後,藤原種継(たねつぐ)暗殺に関係していたとして官籍から除名されたが,のち復した。
【格言など】鵲(かささぎ)の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける(「小倉百人一首」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「大伴家持」の解説

大伴家持
おおとものやかもち

718〜785
奈良時代の歌人
旅人 (たびと) の子。『万葉集』に473首おさめられ,『万葉集』中最多。その編纂には最も力があったと考えられるが,758年因幡守任官の年で作歌生活を終えている。のち中納言まで昇進したが,死後藤原種継暗殺に関係したとして処罰をうけた。藤原氏の隆盛に圧迫された貴族の一人。

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世界大百科事典(旧版)内の大伴家持の言及

【越中国】より

…小矢部川の河口左岸段丘上に位置し,付近には国分寺跡も存在する。《万葉集》には,746年(天平18)から751年(天平勝宝3)まで越中国守であった大伴家持の作歌が多数収録されており,古代越中の風物を今に伝えている。8世紀中葉以降,当国内には盛んに東大寺などの墾田地が占定されたが,残された諸荘の田図によって当時の地形,開発の状況などを具体的に知ることができる。…

【大久米命】より

…オオクメノミコトはまた神武天皇の皇妃選定にさいし媒介役をつとめており,その職掌には近習的性格が含まれていたことを思わせる。なお《万葉集》の歌で大伴家持は,〈大伴の遠つ神祖(かむおや)のその名をば大来目主(おおくめぬし)と負ひ持ちて〉と詠んでいる。〈大来目主〉は久米部を率いる者の意で,もって武門の棟梁たる大伴の家名を誇示したのであろう。…

【歌論】より

…悽惆(せいちよう)の意,歌にあらずは撥(はら)い難し。よりて此の歌を作り,式(も)ちて締緒(ていしよ)を展(の)ぶ〉(巻十九),これは大伴家持の和歌に対する見解であるが,〈悽惆の意(痛み悲しむ心)〉は作歌することによってのみはらいうるとしているのは,和歌の本質論と見てよい。また,〈白雪の降りしく山を越え行かむ君をそもとな息(いき)の緒に思(も)ふ〉(巻十九)という歌の左注に,〈左大臣尾(最後の七拍のこと)を換へて云はく,“いきの緒にする”といへり。…

【防人歌】より

…任期は3年で,東国の農民たちが徴発され,これに充てられた。〈防人歌〉の中心をなすのは,天平勝宝7年(755)の84首であるが,それを採録したのは大伴家持であった。防人たちが,出発にあたって父母妻子らと歌を詠みかわしたり,旅の途次の宴席等に歌をつくったりする伝統があったのだろう。…

【橘諸兄】より

…《公卿補任》には737年に54歳とあるから,これによると没年齢は74歳となる。彼の邸宅ではしばしば歌宴が催され,大伴家持・書持の兄弟,大伴池主その他が参加したらしく,その折の作品が《万葉集》にしばしばみえる。《尊卑分脈》《公卿補任》などに〈井手左大臣〉〈西院大臣〉などと号したとある。…

【短歌】より

…儒教思想を体しつつ独自な社会詠を残した山上憶良,伝説歌人として知られる高橋虫麻呂の2人は,むしろ長歌を得意としたが,短歌史の上でもやはり忘れることはできない。第4期に入ると,孤独や疎外感,美や季節の移りをうたってデリケートな抒情世界を確立した大伴家持が登場する。〈うらうらと照れる春日に雲雀(ひばり)あがり情(こころ)悲しも独りし思へば〉(大伴家持)。…

【能登国】より

…しかし741年(天平13)に至り,能登国は越中国に併合され廃国となった。748年(天平20)春,越中守大伴家持が出挙(すいこ)のために能登半島を巡行したときの和歌が,《万葉集》に載せられている。757年(天平宝字1)能登国は越中国から分立して復活した。…

【万葉集】より

…巻十六は伝説歌,戯笑歌,地方民謡などをおさめる。巻十七~二十の4巻は大伴家持の歌日記的歌巻で,ほぼ年代順に家持の作,それと贈答された作および見聞に入った歌が配列され,うち巻二十には一群の防人歌(さきもりうた)が採録されている。以上を一括すれば,全20巻は原型としての巻一・二,その増補展開としての巻三~十六,家持歌集としての巻十七~二十の3部に分別することができよう。…

※「大伴家持」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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