常盤町(読み)ときわちよう

日本歴史地名大系 「常盤町」の解説

常盤町
ときわちよう

[現在地名]八幡市八幡土井

常盤道の淀川堤より四九六間南にある常盤町口の石橋から南へ常盤道五六間の両側町並で(「石清水八幡宮史料叢書」所収八幡宮境内古図)、南は土橋つちはし町に続く。

慶長五年指出帳(「石清水八幡宮史」所引)によれば、地子合計八・八四石を一七軒で負担している。また同帳は「天正十七年御検地以前まで当知行仕儀候」と記し、常盤町「天正十六年分地頭前之分」として八郎右衛門(一一・二五石)石清水いわしみず八幡宮の達所神人鹿野与三左衛門(一五・三八石)、同鹿野甚二郎(九・一七石)、同又介(一石)、鹿野吉右衛門(三・九石)、石清水八幡宮の小綱神人鹿野与吉(三・〇五石)、同鹿野円喜後家(三石)、藤右衛門(七・六六石)、彦四郎(一・六石)、弥三郎(〇・七四石)、藤本理兵衛(一・八石)、与三右衛門(〇・七五石)、鹿野源三郎(一・〇六石)の一三名と、常盤道西側にあった浄土宗長福ちようふく(一・二五石)の一ヵ寺がみえる。

常盤町
ときわちよう

東山区渋谷通東大路東入・東入二丁目

鐘鋳かねい町の東、馬町うままち通に位置し、現東大路通より東、土橋どばしまでの間を占める。

宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「右鐘鋳町の東町常盤町 此町北側に金剛院といふ妙法院宮様の院家有。此町に土橋有」とある。天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」では南・北二町になっている。

町の北側に佐藤継信・忠信の供養塔二基があるので、旧称を石塔せきとう町といった。延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)に石塔町北側・石塔町南側とみえ、既にこの時期より南・北に分れていたことを知る。

常盤町
ときわちよう

[現在地名]函館市弥生町やよいちよう船見町ふなみちよう

山ノ上やまのうえ町の上(山手)に開けた町で、近世には山ノ上町の小名であったと考えられる(「蝦夷日誌」一編)。「蝦夷島奇観」があげる箱館の一〇町のうちに「常盤町」とある。享和元年(一八〇一)分間箱館全図では実行じつぎよう寺境内の北西辺を北東から南西に走る通りに「常盤町」とみえる。この通りは南西端でのちの天神てんじん町の通りに丁字状に突き当るが、突き当った地点から、のちの天神町の通りを南西方向に進んだ辺りには「常盤町新地」とある。

常盤町
ときわちよう

[現在地名]滑川市常盤町

七夕たなばた川の左岸に位置し、北陸街道に面した両側町。北には富山湾が広がる。滑川町の東端にあたり、西は神明しんめい町、南は吾妻あづま町。文化年中(一八〇四―一八)から所々に人家が建ち、天保一四年(一八四三)孝徳泉こうとくせんという湯屋ができて周囲に遊廓が建並び、一帯は新屋敷しんやしきとよばれるようになったという(「滑川町誌」など)。しかし同一二年の滑川町見取絵図(滑川市立博物館蔵)新屋町とみえ、家数一二七、南東端には孝徳泉が記される。嘉永元年(一八四八)には新屋敷の屋敷地替えについての願状が出されている(旦尾家文書)

常盤町
ときわちよう

東山区大和大路通四条上ル二丁目

東は大和大路やまとおおじ、西は川端かわばた通(通称車道くるまみち)を挟んで鴨川、北はしら川。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「大和橋下ル、常盤町 此町北西方に道あり。川端と云。四条芝居の西へ出る。又大和橋の南、東八町は末吉町也」とある。

寛文一〇年(一六七〇)頃の開町。弁財天町などとともに祇園そと六町の一として、祇園新地の一角を占めるに至る。元禄七年(一六九四)「京鏡」にみえる「大和はし町」は、前後の記述から常盤町をさすと思われ、この称が当町の古称もしくは異称として通行していた時期があったと推測される。

常盤町
ときわちよう

[現在地名]平戸市崎方町さきがたちよう 常盤町

平戸城の北西、福寿ふくじゆ町の北東に位置する。平戸浦の北岸にあたり、山手の町屋の背後は御館おたちノ坂に通じる。本町ほんちよう通六ヵ町の一つ崎方町に属した。オランダ商館の長崎移転後、平戸藩が幕府から配分された現糸一〇丸が割当てられるが、糸割符制の復活がなった貞享二年(一六八五)当町年寄の谷川助左衛門は、国貨物頭とともに再配分の御礼のために長崎に出向いている(「役所手鑑」谷村家文書)。元禄一〇年(一六九七)の廃止まで現糸の受給総額は六千五〇〇斤で、糸割符増銀は一一四貫七九九匁であった。

常盤町
ときわちよう

大和やまと(奈良)街道沿いの町で、玄蕃げんば(現豊後橋町)の北に位置する。

町内に常盤井ときわいという伏見七井に数えられる名井があったが、昭和三二年(一九五七)の国道二四号線拡張工事のとき破却され、井戸の井筒は現在御香宮ごこうぐう弁天べんてん社前の池の石橋として残されている。伝説によれば、平治の戦乱後都落ちする常盤御前が、伯母を尋ねて当地へ来て一夜を明かしたとか、常盤井はこの地に常盤御前が居を構えた時の愛用の井戸であったといわれる。

常盤町
ときわちよう

[現在地名]室蘭市常盤町・中央町ちゆうおうちよう一―三丁目

明治六年(一八七三)から同三三年六月までの室蘭郡の町。絵鞆えとも半島の中央に位置し、札幌通さつぽろどおり四丁目の中央から西に入る通り一帯で、東ははま町、北は幕西まくにし町、南はほん(明治一四年「新室蘭市街図」昭和一六年室蘭市史など)。町名は末長い繁栄を願って命名(新室蘭市史)。明治六年一二月新室蘭の町名区域が決定し、「常盤町」は札幌通五丁目の「道幅五間・弐拾五番屋敷横町」で(「室蘭郡各区並町名之義ニ付伺奉候書付」新室蘭市史)、学校・寺院などのほか、奥地に墓地があった。同九年の北海道大小区画制定時には「常磐町」とみえる(「事業報告」第一編)

常盤町
ときわちよう

[現在地名]岡山市田町たまち二丁目

外堀に接した西側の片側町。東は外堀、南は常盤町ときわまち口門から正覚しようがく寺前への道を隔てて尾上おのうえ町・高砂たかさご町、西は仁王におう町、北は道と細堀を隔て蓮昌れんじよう寺。外堀の常盤町口門は火事などの際の請取口とされている(藩法集)。宇喜多氏時代に成立していたと考えられる。寛永城下絵図では「仏師町」とみえ、延宝二年(一六七四)の御触留(国富文書)では常盤町とみえる。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によれば町域は六反余で、徳米八石九斗余・口米一斗余。近世初期の区分は外町(市政提要)、中期以降は中組の外町(岡山市史)

常盤町
ときわちよう

[現在地名]中区丸の内まるのうち三丁目・にしき三丁目

呉服ごふく町の南、針屋はりや町の北にあり、すぎの町筋より南へ二丁、伝馬てんま町筋までの間をさす。清須きよすのとき竹を商う者が多数居住していたので、名古屋へ移ったのちも竹屋たけや町ととなえた。元禄年中(一六八八―一七〇四)頃にしばしば出火した。町名「たけや」を逆読すると「やけた」になるので藩に願い、元禄一四年竹を常盤木に変えて、この町名とした(金鱗九十九之塵)。清須越しの時期は確認できないが、町内の油商橘屋久野助九郎方の古帳によれば慶長一四年(一六〇九)という(尾張城南陌名由緒)

常盤町
ときわまち

[現在地名]長崎市常盤町・大浦町おおうらまち東山手町ひがしやまてまち

うめさき町の南西にある。もとは戸町とまち村のうちで、安政六年(一八五九)より万延元年(一八六〇)にかけて埋立てられ、文久三年(一八六三)外国人居留地とされた。これに伴い町名が付けられたが、検地帳などの旧名によったというので(「大浦外国人居留地古川浪平海岸埋築」長崎図書館蔵)、かつての岬名に由来するのであろう。「長崎名勝図絵」に梅ヶ崎はもと常盤崎と称したとある。四番波止・五番波止がある港湾地区で、幕末期に英米商会が並んだ。イギリス商人トーマス・グラバーは慶応元年(一八六五)大浦海岸通り(現市民病院より松ヶ枝橋の間約六〇〇メートル)に日本初の汽車を走らせた。同二年の長崎居留場全図(内閣文庫蔵)に「トキワマチ一丁目」「トキワマチ二丁目」とあり、隣接して「運上所」が置かれる。

常盤町
ときわちよう

[現在地名]高崎市常盤町

赤坂あかさか町の西に続く坂下にある。東は同町のほか田畑、南は城、北は田畑で西はからす川河原。中山道に沿い、町の長さ一町一七間(高崎寿奈子)。「高崎志」に「高崎上ノ入口也、正徳元年辛卯町トナル、本町ノ分也、享保年中火災ノ後、故アリテ南側ニハ人家ヲ不造、苦橘ヲ樹テ牆トス、此町茶屋軒ヲツラネテ食品ヲ沽ル」とある。中山道の外木戸が町端にあり、茶屋などの旅人相手の商家ばかりであった。中山道は木戸を出てすぐに烏川を渡り碓氷うすい豊岡とよおか村に通じていたが、右折して五軒ごけん町を経て下並榎しもなみえ村を通るようになった。

常盤町
ときわちよう

大正一一年(一九二二)四月に成立した現在の室蘭市の町名。絵鞆えとも半島の中央部に位置する。もとは室蘭区大字常盤町および大字本町ほんちよう・大字札幌通さつぽろどおりの各一部で、大正一一年四月に室蘭区常盤町となり、一部を清水しみず町に移した(「大字廃止及町名番地改称の件」昭和一六年室蘭市史)。同年八月の市制施行により室蘭市常盤町となった。昭和四一年(一九六六)住居表示が実施され、丁目は設定せず、一部を中央ちゆうおう町一―二丁目に移し、清水町・おお町の一部を編入(第四次住居表示新旧対照表)

常盤町
ときわちよう

[現在地名]松山市高砂町たかさごまち一―三丁目

松山城下町の最北部を東西に通じる町筋と、その周辺を含む。東は清水しみず町、西はほん町、南は鍛冶屋かじや町、北は味酒みさけ村に接する。初め紺屋こんや町と称し、その東半分を上紺屋町、西半分を下紺屋町とよんだことは、元禄―正徳年間(一六八八―一七一六)と推定される松山秘図(伊予史談会蔵)によって明らかである。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(同会蔵)の「古町分三拾町」のなかには、北上紺屋・同下紺屋町と書かれている。

常盤町
ときわちよう

昭和二七年(一九五二)に設定された。西はとん田東でんひがし町、北はもと町、南は中ノ島なかのしま町。東境を北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河ぎんが(旧JR池北線)、北を国道三九号(旧中央道路)、西を緑園りよくえん(西二号)が通り、南は無加むか川が東へ流れる。昭和三〇年代初めからの北海道農業試験場北見支場の移転に伴い北部は公共施設および商業地域、南部は住宅地域として整備された。

常盤町
ときわまち

[現在地名]鈴鹿市神戸かんべ八丁目

神戸城下への北の入口にあたる。神戸宿は河岸段丘上にあるのでこの付近では坂となり、道を挟んで石垣と土塁を設けた見付がある。神戸宿としては旅籠屋の最も多かった所で、早くから飯盛(茶店女)を置くことを許されていた。寛文一〇年(一六七〇)八月二八日付の文書(河芸郡史)に「伊勢国河曲郡神戸居住森勘左衛門支配家同所常盤町八間家茶店女願之旨承知、以後可差置書如件」とあり、江戸初期当町に飯盛女を置いた茶店八軒があったことがわかる。享保一七年(一七三二)の町内長さ五五間、家数一五(九皐抄)

常盤町
ときわちよう

[現在地名]根室市本町ほんちよう梅ヶ枝町うめがえちよう緑町みどりちよう・常盤町・大正町たいしようちよう宝林町ほうりんちよう

明治九年(一八七六)から同三三年までの根室郡の町。明治九年七月常盤町一―三丁目が新たに設置された。花咲はなさき町の西に接し、根室港から南に延びる通りに沿う(「事業報告」第一編など)。同一二年の戸数三〇(根室市史)

常盤町
ときわまち

[現在地名]福井市春山はるやま二丁目

中呉服なかごふく町通を東に折れたところにある東西に延びる町で、北は鍵町、南は松屋まつや町。万治二年(一六五九)の大火後、もとこの地にあった東御堂ひがしみどうが転出した跡に、松屋町とともに新しく開かれた町で、地子を納める地子町。本山の東本願寺が京都の常葉ときわ(現京都市下京区)にあるため、これにちなんだ町名か。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳には「常盤町 八拾四間半、往還ヨリ新片町迄、但道幅三間半」「松屋町 八拾弐間、往還ヨリ新片町迄、但道幅四間」と記す。

常盤町
ときわまち

[現在地名]武生市国府こくふ一丁目・きよう町一丁目・かつら

北陸街道沿いの町で、北は北府きたご町、南はむろ町に接する。かつてはよこ町と称し、寛永二年(一六二五)の浅井永記録に「□町三十六軒」(南条郡誌)とみえる町にあたると考えられる。

常盤町
ときわまち

[現在地名]金沢市常盤町

東御影ひがしみかげ町の南西に、浅野川に並行して延びる通りに沿う町。長さは約二町三〇間(皇国地誌)。慶応三年(一八六七)卯辰うたつ山開拓時に新たに町立てされた(金沢古蹟志)。明治四年(一八七一)当町と同じ頃に町立てされた南東の粒谷つぶたに町を合併、戸数二五(「卯辰山開拓録」金沢市立図書館蔵、「御布告留帳」加賀藩史料)

常盤町
ときわまち

[現在地名]高知市南宝永みなみほうえい町・二葉ふたば

高知城下東端の農人のうにん町から東へ延びる堀沿いの道の北側に天保元年(一八三〇)成立した商人町。東西およそ一二六間、南北およそ八間半(皆山集)。町名は堀沿いに松並木があったことにちなむという。同一二年の城下町絵図に名がみえ、南側堀沿いに松並木、その間に四軒の家が描かれる。

常盤町
ときわちよう

[現在地名]伊丹市みやまえ二丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。鍋屋なべや町の北に位置する。常磐町とも記した。文禄伊丹之図に人家が描かれているものの、寛文九年(一六六九)伊丹郷町絵図では人家が消え、天和―元禄年間(一六八一―一七〇四)までに町が成立(文禄伊丹之図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報