山陵志(読み)サンリョウシ

デジタル大辞泉 「山陵志」の意味・読み・例文・類語

さんりょうし【山陵志】

江戸後期の史書。2巻。蒲生君平がもうくんぺい著。文化5年(1808)成立漢文体で、山陵崇敬を説き、歴代天皇の山陵を考証したもの。尊王論に大きな影響を与えた。

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精選版 日本国語大辞典 「山陵志」の意味・読み・例文・類語

さんりょうし【山陵志】

江戸後期の史書。二巻。蒲生君平著。文化五年(一八〇八)刊。神代以来の陵墓の形式変遷大要を論述し、神武天皇以下歴代の山陵の所在を国郡別にあげ考証を付す。内容は実地調査に基づき、古図、旧記、陵記などを参照し、漢文記述。正確度が高い。天皇陵荒廃を憂え、復興と崇敬を説いて尊王論に大きな影響を与えた。

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改訂新版 世界大百科事典 「山陵志」の意味・わかりやすい解説

山陵志 (さんりょうし)

2巻。蒲生君平の著。1801年(享和1)に稿成り,1808年(文化5)山崎美成らにより刊行された。君平が執筆を意図した九志の第2にあたる。九志のうち,この《山陵志》と《職官志》のみが完成した。歴代山陵を実地踏査してその変遷を論じ,前方後円墳の語を初めて用いた。大和河内和泉摂津山城等に所在する92天皇陵(泉涌寺所在の山陵を除く)について,その場所を考証している。古墳研究の先駆となった著作。勤王思想高揚の大きな力となり,また,幕末の山陵研究家に与えた影響は大きい。《蒲生君平全集》《皇学叢書》《大日本文庫》所収。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山陵志」の意味・わかりやすい解説

山陵志
さんりょうし

蒲生君平(がもうくんぺい)の著した各天皇陵についての調査書。水戸学の影響を受けた君平が天皇陵の荒廃を嘆き、近畿一帯の山陵を実地に踏査、1801年(享和1)全2巻にまとめた(出版は08年)。大和(やまと)、河内(かわち)、和泉(いずみ)、山城(やましろ)などの地域の全92陵について考証を付し、天皇陵の復興と尊崇を説いている。考古学的意義もあるが、幕末の尊王論に影響を与えた点が大きく、尊王思想の先駆的な著作の一つといえる。『皇学叢書(そうしょ)』第5巻、『蒲生君平全集』、『勤王文庫』第3巻に所収。

[奈倉哲三]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山陵志」の解説

山陵志
さんりょうし

歴代天皇陵の所在を考証した書。2巻。蒲生君平(がもうくんぺい)著。1808年(文化5)刊。君平が生涯の事業とした「九志」(神祇・山陵・姓族・職官・服章・礼儀・民・刑・兵の各志)の一つで,山陵・職官のみ完成。山陵尊崇の念が説かれ,陵墓の形態の変遷と歴代山陵の所在の実証的考証を行う。山陵調査と陵墓確定への運動の先駆をなす。脱稿は1801年(享和元)頃。「日本庶民生活史料集成」「史料天皇陵」所収。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山陵志」の意味・わかりやすい解説

山陵志
さんりょうし

歴代天皇の陵墓についての研究書。2巻。蒲生君平著。文化5 (1808) 年脱稿。江戸時代後期,勤王主義の蒲生は古代史料に基づいて各陵墓を実地調査し,その復興を志した。第1巻には大和,河内,摂津など 54ヵ所,第2巻には山城 38ヵ所の計 92ヵ所の陵墓について記述。『蒲生君平全集』その他所収。

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旺文社日本史事典 三訂版 「山陵志」の解説

山陵志
さんりょうし

江戸後期,蒲生君平 (がもうくんぺい) の著書
1808年刊。2巻。歴代天皇陵の荒廃をなげき,各陵を実地踏査して詳細に調査考証したもの。第1巻は大和31か所,河内13か所,和泉3か所など。第2巻は山城38か所。天皇陵の尊崇と復興を唱え,幕末の尊王思想に影響を与えた。

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世界大百科事典(旧版)内の山陵志の言及

【蒲生君平】より

…下野宇都宮の商家の四男として生まれ,儒者鈴木石橋のもとに学び,のち藤田幽谷,林子平らと交わり,水戸学の影響を受けた。荒廃した歴代天皇陵を調査し,1808年(文化5)《山陵志》を著したが,これは幕末尊王論に大きな影響をあたえた。また,ロシア軍艦の北辺出現を契機として1807年に《不恤緯(ふじゆつい)》を著し,幕閣に危機意識と海防の必要性を訴えた。…

【前方後円墳】より

…古くより民間では,その形を身近な器物になぞらえ,車塚(くるまづか),銚子塚(ちようしづか),茶臼山(ちやうすやま),瓢簞山(ひようたんやま),瓢塚(ひさごづか),二子山(ふたごやま)などと呼びならわしてきた。江戸中期の国学者,蒲生君平も《山陵志》(1808)の中で宮車模倣説を唱え,円丘を車蓋に,方丘を轅(ながえ)に見たて,〈前方後円〉と形容したが,それがこの名称の起源となった。そこで便宜上,円丘部を〈後円部〉,方丘部を〈前方部〉,両者の接するところを〈くびれ部〉と呼ぶ。…

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