寺内村(読み)てらうちむら

日本歴史地名大系 「寺内村」の解説

寺内村
てらうちむら

[現在地名]秋田市寺内・将軍野東しようぐんのひがし一―四丁目・同みなみ一―五丁目・同青山あおやま町・同かつら町・同向山むかいやま土崎港南つちざきみなとみなみ一―三丁目

南は八橋やばせ村を隔てて久保田くぼた城下に対し、北は幕洗まくあらい川を境として土崎湊に、西は雄物川に面し、東に秋田平野の水田地帯をもつ。城下に匹敵する広さをもつ。高清水たかしみず丘陵を縦貫して羽州街道が走り、古四王こしおう神社の門前を中心に、元和二年(一六一六)五月安東氏の旧臣船木靫負が土崎湊と久保田間に開いた道沿いに集落が続く。「続日本紀」天平五年(七三三)一二月二六日条にある出羽柵でわのき建置当初から、高清水丘陵を中心に自然村落が形成されたとみられる(→秋田城跡

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に寺内村の名がみえる。慶長二年(一五九七)の免目録御蔵入御物成納口之帳(秋田家文書)には「寺内郷」とあり、太閤蔵入地。

寺内村
じないむら

[現在地名]八尾市ほん町一―五丁目など

長瀬ながせ(旧大和川の本流)の右岸に接して位置。宝永元年(一七〇四)の大和川付替えで、長瀬川は用水井路となったが舟運はでき、大坂天満てんま(現北区)へ通じた。江戸期の八尾の中心的な村で、摂津平野郷ひらのごう(現平野区)から当地を通り、高安を経て大和の信貴しぎ竜田たつた方面へ行く八尾街道が通る。長瀬川の西側川向いは久宝寺きゆうほうじ村、村の東側には、西郷さいごう村・東郷村など八尾村と総称された村々が並ぶ。

慶長一一年(一六〇六)に久宝寺寺内町の住人が移住開発して成立した村で、八尾寺内村(河内国一国村高控帳)ともいう。江戸初期、久宝寺寺内町では顕証けんしよう寺下代安井氏の支配に森本七郎兵衛ら農民が反対し、訴訟となった。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]会見町寺内

三崎みさき村の南、手間てま山の北麓に位置し、東は天万てま村、西は清水川しみずがわ(現西伯町)。村名はかつて付近に願光がんこう寺・延命えんめい寺・普段ふだん寺などの伽藍があって、当地がこれら諸寺の境内地となっていたことに由来するという(伯耆志)。隣接する現天万てんまん地区を含む一帯は古くから出雲と伯耆とを結ぶ交通の要衝にあたり、戦国期にはいくつかの城塞が築かれた。元亀二年(一五七一)伯耆尼子勢の制庄につとめた吉川元春は尼子方の末吉すえよし(現大山町)に続いて寺内を攻め、同年八月一八日夜明け、これを落している(同年八月二〇日「吉川元春書状」閥閲録など)

寺内村
てらうちむら

[現在地名]豊中市寺内一―二丁目・東寺内ひがしてらうち町・若竹わかたけ町一―二丁目・服部緑地はつとりりよくち

小曾根おぞね村・石蓮寺せきれんじ村の北にあり、小曾根村の枝郷(元禄郷帳)。村域の大部分は千里丘陵に属し、集落(現若竹町二丁目)たか川が低地に入る西側に展開している。村名はかつて石蓮寺の寺域であったことによるという(大阪府全志)。元文元年(一七三六)の豊島郡誌(今西家文書)には上寺内村・下寺内村とあり、上下の二村に分れていたとみられる。文禄三年(一五九四)の検地で高二二八石余(宝暦八年「村明細帳」同文書)

寺内村
てらうちむら

[現在地名]淀江町福岡ふくおか

北尾きたお村の南に位置する。嘉永四年(一八五一)領内限りで上淀かみよど村と改称(在方諸事控)天満天神(現天神垣神社)のほか、後院僧正なる者が造立した大日堂や経堂があることから寺内と称するようになったといわれる。慶長一五年(一六一〇)の豪円書状写(西伯郡自治史)によれば、かつて大山領であったとされている。また当初の集落名は一本木いつぽんぎ村であったとも伝える(天保一二年「大宮大明神・天満天神由緒書上帳」天神垣神社蔵)

寺内村
てらうちむら

[現在地名]山都町小舟寺こふなじ

船岡ふなおか村の北、いち川の下流東岸にあり、北は川隅かわすみ村、西は一ノ戸川を挟んでしも村。昔、地内に大同寺という巨刹があり、その境内であったことから名付けられた地名という(新編会津風土記)。北に川角かわすみ(河隅などとも記し、現在の下川角)、南に石田坂いしだざかの各端村がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に寺内とみえ、小布瀬こぶせ郷との注があり、高一五八石余。慶安四年(一六五一)の当免状(真部家文書)によると高二一〇石余(うち下川角二二石余・石田坂二三石余)

寺内村
てらうちむら

[現在地名]和田山町寺内秋葉台あきばだい

林垣はやしがき村から糸井いとい谷を東に入ったところに立地。養父やぶ郡に属し、「延喜式」神名帳に記す養父郡三〇座の一つ「更杵村大兵主神社」は当地の更杵さいらぎ神社に比定される。同じく「佐伎都比古阿流知命さきつひこあるちのみこと神社」も当地の同名社とされ、祭神は天日槍の妻前津見の祖神佐伎都比古命と、その子の阿流知命であると伝える。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえる。寛文八年(一六六八)豊岡藩主京極高直の次男高門領となったと推定される。旗本としての京極高門の分知分は高二千石で、豊岡藩旧京極領三万五千石村々高付(岡本家文書)によれば養父郡三ヵ村・美含みくみ郡七ヵ村のうちであったと推定される。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]尾花沢市寺内

野黒沢のくろさわ村の北東、最上川支流野尻のじり川の上流域に位置し、東は牛房野ごぼうの村、南は荻袋おぎのふくろ村。元和八年(一六二二)山形藩領、寛永一三年(一六三六)より幕府領、安政二年(一八五五)から松前藩領となる。元和一〇年の検地帳写(部分、溝越文書)の表紙に「村山郡小田島之庄延沢ノ内寺内村」とみえる。正保郷帳では田方一千一九九石余・畑方九七石余。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]鹿島町寺内

南東流する真野まの川の南岸台地を中心に開け、対岸は鹿島村、南東は江垂えたり村、西は火矢かやの原を経て小池こいけ村。当村北部の字落合おちあいで、真野川に北東流する水無みずなし(上真野川)が合流する。字横峯よこみねに横峯溜池がある。正保郷帳では田方三九四石余・畑方一一四石余。明暦二年(一六五六)の高一九九石余(相馬藩政史)元禄郷帳によると高一〇六石余、ほかに落合新田一〇四石余がみえ、字落合付近に比定される。なお元禄検地高は四八九石余、ほかに新田七二石余がある(奥相志)。天明三年(一七八三)の家数二八、嘉永元年(一八四八)の家数二三(検地石高収納戸口等調)

寺内村
てらうちむら

[現在地名]大豊町寺内

吉野川の北岸沿いに位置する山村で、南を除く三方をかじうち村に囲まれる。「土佐州郡志」は「東西二十町南北十五町」と記す。吉野川対岸の舟戸ふなと村とを結ぶ渡しがあった。

地名は天正五年(一五七七)一一月八日付の大田山豊楽寺棟札銘(蠧簡集木屑)に「寺内惣名衆」とみえる。同一六年の豊永地検帳に「寺内名」とみえ、名内には柳禰やなぎね・スケ禰・大田おおた村・大田口おおたぐち村・舟戸津・ヱノ木・一宇野いちうの橋爪はしづめ新堂しんどうの九小村がみえ、検地面積一五町六反一七代二歩、うち田分二町八反二五代一歩、畠分四町一二代一歩、屋敷数四六で八町七反三〇代。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]木沢村寺内

高野たかの村の東、坂州木頭さかしゆうきとう川に注ぐ泉谷いずみだに川流域に位置する。文明八年(一四七六)六月一五日の仁宇郷公事銭注文(徴古雑抄)には奥分のうちに寺内四五〇文が記される。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図には寺内村がみえる。宝暦一四年(一七六四)の沢谷村検地帳(斎城家文書)には寺内分も書上げられており、田九反余・畠一町四反余、高八石余。

寺内村
じないむら

[現在地名]三原町八木天野寺内やぎあまのじない

大久保おおくぼ村の西にある。中央部を天野川が北西流し、南西部を円行寺えんぎようじ川が流れ、小井おい村境で合流して北へ流れる。北端を福良ふくら街道が南東から北西へ通る。正保国絵図に村名がみえ、高四二〇石余。天保郷帳でも同高。反別戸数取調書によると反別三九町九反余、高三七〇石余、うち蔵入高一三石余・給知高三六六石余。給人は牛田増次郎ら八人。ほかに成相なりあい三社明神(現天野神社)領六斗余がある。家数九二・人数四五四。水利として円行寺川井手(享保六年「諭鶴羽河内水論裁定書」三原郡史)上田こうだ池などの溜池がある(味地草)

寺内村
てらうちむら

[現在地名]和歌山市寺内

名草なくさ郡に属し、和田わだ川の北、大日だいにち山の南、福飯ふくいいヶ峯の東にある。南西をもり村と接し、小名に堂西どうにし門前もんぜん三軒屋さんげんやがある。中世は岡崎おかざき庄に含まれた。慶長検地高目録でも岡崎村に含まれ、同村の注記のうちに「寺内」とみえる。のち分村し、天保郷帳によると高四三〇石余。「続風土記」は家数・人数を西にし村に含む。同書は「山東ノ荘及那賀郡中の往還にして普通の村落の形なく人家軒を並ふ」と記す。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]船橋市西船にしふな四―七丁目・葛飾町かつしかちよう印内いんない一丁目・東中山ひがしなかやま二丁目

本郷ほんごう村・印内村の北に位置する。村内南部を房総往還が東西に通る。栗原くりはら八ヶ郷の内。常楽じようらく寺境内から延慶三年(一三一〇)銘の弥陀三尊板碑が出土し、同寺および西にしさきの墓地から南北朝時代の武蔵型板碑が数基出土している。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。近世の支配領主の変遷は山野やまの村と同様とされる。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]篠山市寺内

大熊おおくま村の西に位置し、北西を黒岡くろおか川が流れる。地内の寺内遺跡は瓦類が出土し、奈良時代後期の寺院跡ともいう。昼目谷ひるめだにつぼ大売おおひるめ神社は「延喜式」神名帳に記す多紀たき郡九座の一つ「大売神社」に比定される。室町期作という石造狛犬があり、八上やかみ城主や篠山城主の崇敬が厚かったとされる。貫通穴のある礎石は嶽の中腹にあった知足ちそく寺にかかわる宝塔の心柱の礎石か袴石かという。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「寺内村」とみえ、高二〇六石余。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]真岡市寺内・松山町まつやまちよう

鬼怒川と五行ごぎよう川に挟まれた段丘上にあり、北は小橋こばし村・茅堤かやつつみ村。字東宿ひがしじゆく荘厳しようごん寺があり、当村は源頼朝が同寺に寄進した法田三〇町のうちに含まれたといわれ、字名に大鼓免・御廟免・沓免・笛免・珠数免・袈裟免などが現存する。字内野うちのに内野野銭場、字大野原おおのつぱら大平おおひら地林があり、合せて反別約一六〇町歩に及ぶ。慶長六年(一六〇一)幕府領、のち宇都宮藩領。慶安郷帳によると、田高二四八石余・畑高一四五石余。元禄一〇年(一六九七)から旗本大久保・長田・森・森川の相給。天保一〇年(一八三九)の村高人別書上帳(東京都久保京一文書)によると、家数一二、男二二・女二五、馬四で、高六六六石余は旗本四氏に均等に分けられている。

寺内村
じないむら

[現在地名]栗東町上鈎かみまがり

上鈎村の西、葉山はやま川北岸に沿う平地に立地。江戸時代初期までは上鈎村のうち。寺内村由来図(大宝神社蔵)足利義尚の陣所跡がみえ、現在永正えいしよう寺の周囲に堀と土塁の跡がみられ、これを陣所跡に比定する説がある。織豊期には荒廃していたが、天正一一年(一五八三)羽柴秀吉の臣脇坂安治が永正寺の僧了心に命じて上鈎の西の一部を開墾させ住民の移住を奨励、屋敷地を諸役免除とするなど上鈎寺内の形成を企図した(同年一一月二六日「脇坂安治書状」永正寺文書)。同一九年脇坂氏を継いだ領主小野木縫殿重次も五月二〇日脇坂氏同様の書状を下し、寺内へ隣郷からの移住を奨励。以後江戸時代末まで代々領主から屋敷地の諸役免除状を与えられている(同文書)

寺内村
てらうちむら

[現在地名]佐原市寺内・みずほだい

堀之内ほりのうち村の南東に位置し、一部に台地をもつ。慶長四年(一五九九)の矢作領検地では検地高五六〇石(「部冊帳」伊能家文書)。寛永二年(一六二五)旗本高木為信は当村で二八〇石を宛行われた(知行宛行状)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高六五六石余、幕府領と旗本高木・三木領の相給。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]和田山町加都かつ

市場いちば村と道一つ隔てた東にある。往古から池寺いけでら庄とも称した賀都かつ庄のうちで、江戸期に市場村と寺内村とに分離された。往古この地に歓喜光かんきこう院があったことに基づく地名で、大門だいもん極楽寺ごくらくじ恵林寺えりんじ院の馬場いんのばばの地名が残る(朝来志)。一七世紀前期・中期とされる国絵図(石川家蔵)では「寺内」とみえ、正保(一六四四―四八)頃の国絵図では高五二四石余。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]加美町寺内

的場まとば村の東、杉原すぎはら川西岸で支流多田ただ川・奥荒田おくあらた川が合流する位置にある。地名の由来は荒田神社の別当寺である神宮じんぐう(現廃寺)の寺内であったことによる。慶長国絵図に村名が記載される。正保郷帳では田方四二八石余・畑方五二石余、山役があり、幕府領。延宝五年(一六七七)の検地帳(寺内区有文書)によれば高四八〇石余・反別三〇町八反余、うち川成荒八石余、小物成は山手銀四五匁・野藪年貢銀二匁。宝暦六年(一七五六)の村明細帳(同文書)によれば高四一五石余・反別三一町余、うち諸引二八石余、家数五三(高持五〇・水呑三)、的場村への出作六人(高一五九石余)、多田村への出作一人(高一九石余)、牛二一、山手銀四五匁・野藪年貢銀一七匁余、郷蔵一・水車一、紺屋二、阿弥陀堂・地蔵堂・神宮寺・大歳おおとし社・地神社があった。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]加西市北条町北条ほうじようちようほうじよう

市場いちば村の北に位置し、下里しもさと川流域、北条盆地の中央部に立地する。中世は酒見北条さかみほうじように属した。慶長(一五九六―一六一五)初期北条郷は寺内・市場の二村に分村したとされる。慶長国絵図には「北条ノ市場」の北西に寺中村と記されている。領主の変遷は市場村と同じ。正保郷帳では田方三〇八石余・畑方五〇石余、ほかに酒見寺領六〇石が別記される。慶安元年(一六四八)当村から酒見寺領六〇石をもって西寺内村が分村したとされるが、西寺内村は当村の一部として扱われることが多い。元禄郷帳では同村を合せて高四一九石余。延宝七年(一六七九)の検地帳(北条区有文書)によれば、高三七六石余・反別二八町一反余。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]酒田市北沢きたざわ

金生沢とがりざわ村の北、出羽山地西麓に位置する。地内に興国三年(一三四二)の板碑がある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高三二二石余、寛永元年庄内高辻帳の高は三三二石余。正保郷帳によると田方三二八石余・畑方一四石余。享和三年(一八〇三)の家数三二・人数一七九(「村数家数人高控帳」斎藤文書)庄内要覧では免七ツ五厘、家数三五。貞享四年(一六八七)には草刈地の鷹尾たかお山萱山札一四枚を所有し、米二斗八升を納入(「鷹尾山新古留帳」相馬文書)

寺内村
てらうちむら

[現在地名]鹿野町寺内

今市いまいち村の北、勝見かちみ谷中央部の西方山麓に位置する。北は中園なかぞの村、東は宮方みやかた村。「因幡志」によると、地名は勝宿かちしゆく明神(現加知弥神社)の別当寺宝照寺の境内にあたっていたことによるという。拝領高は二六九石余、本免は五ツ九分。藪役銀二匁七分が課せられ(藩史)、中村氏・円山氏・岡氏および東館家家臣高木氏の給地があった(給人所付帳)

寺内村
じないむら

[現在地名]大野町寺内

古川ふるかわ村の西に位置する。地名は永延元年(九八七)の創建という勝慶しようけい寺の寺内にあったことに由来すると伝える。同寺は二四院に及ぶ堂塔を擁する大寺院であったが、承久三年(一二二一)兵火にかかり衰退した。その法灯を継ぐ一宇が慶長八年(一六〇三)善能ぜんのう(現浄土真宗本願寺派)として再興されたという(善能寺文書)。天正一七年(一五八九)一〇月一三日の寺内畑方・屋敷方検地帳が同寺に伝えられているが、全冊は残らず実態がつかめない。慶長郷帳に村名がないのは、南西の村の内に含まれていたものか。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]近江八幡市加茂町かもちよう

西出にしで村の南西にあり、加茂九ヵ村の一。中世、地内願福がんぷく寺の境内地であったことに由来する村名といわれる。寛永一〇年(一六三三)山城淀藩永井氏領、寛文一〇年(一六七〇)同氏移封により丹後宮津藩領、延宝八年(一六八〇)幕府領となる。元禄郷帳では旗本大給松平(源蔵家)領で、享保九年(一七二四)大和郡山藩領となり同藩領で幕末に至る。寛永石高帳では高三七二石余、慶安二年書上によると田三二八石余・畑屋敷三〇石余・永荒一五石余。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]西脇市寺内

西林寺さいりんじ村の北東、加古川西岸に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。寛永一六年(一六三九)幕府領となり(兵庫県史)、天保元年(一八三〇)より幕末まで武蔵忍藩領(天保元年「忍藩領高覚書」要中録、旧高旧領取調帳)。正保郷帳によると田方二五七石余・畑方二九石余。延宝五年(一六七七)の検地帳(寺内区有文書)によれば高二九三石余・反別二二町余、小物成は山手銀一六匁余・川役銀一匁余。天保郷帳では黒田と肩書されて村名がみえ、同高。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]新利根村寺内

小野おの川右岸の台地上にあり、東は小野村。慶長一一年(一六〇六)仙台藩領となり、同年三月三日の常州伊達氏領地知行目録(伊達家文書)に「三百三拾五石 小野寺内」とある。元禄郷帳の村高は八九一石余で、村高の増加は新田開発によると思われる。時期は不明であるが、のち天領となり、幕末の村高は六九一石余に減少する(各村旧高簿)

寺内村
てらうちむら

[現在地名]日田市石井いしい

石井村の東、三隈みくま川左岸に位置する。正保郷帳では石井村の内と考えられる。元禄見稲簿に村名がみえ、高一六三石余。享保八年(一七二三)の日田郡毛付高帳(千原家文書)では毛付高一三〇石余。同年の家数三八、男一〇二・女九〇(長家文書)。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(同文書)によれば田方は稲と五町余の麦作、畑方は粟・稗・大豆・芋・大根を作付け、作間には紙漉、柴薪伐売、葛根・蕨掘などを行った。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]黒羽町北滝きたたき

那珂川上流左岸にある。慶安郷帳に村名がみえ、田三八八石余・畑九三石余、烏山藩領。その後上知され、元禄元年(一六八八)には一部が旗本真野領となり、同一〇年には残りが旗本酒井・桑山・倉橋領となる。改革組合村では幕府領と旗本酒井・桑山・倉橋の四給。旗本領はいずれも七〇石余(旧高旧領取調帳)。寛政六年(一七九四)荒廃した田地再耕作のため、越後国からの作奉公人一名の抱入れを願出ている(「村々願控」川上豊文書)

寺内村
じないむら

[現在地名]祖父江町両寺内りようじない

中牧なかまき村の南、大牧おおまき村の西にある。本郷寺内ほんごうじない村との関係が深く、多くの史料はそれぞれ独立村として扱っているが、「尾張国地名考」は、寺内村に「本郷、寺内と二村あり」と記し、天保村絵図では、本郷寺内村に「本郷寺内村寺内村の地境相訳り不申候」と村境の複雑さを述べている。

寺内村
てらうちむら

[現在地名]青森市羽白はじろ

羽白村の東にあった。貞享元年(一六八四)の郷村帳に、寛文四年(一六六四)以降の新田として、一一九・三石とある。貞享四年の検地帳によれば、村高一六二・八六五石、うち田方一三〇・六四九石、畑方三二・二一六石とある。元禄三年(一六九〇)には油川組に属し、村位は中である(平山日記)。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、天明八年(一七八八)に二・一石の新田高が書上げられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報