大野町(読み)おおのまち

日本歴史地名大系 「大野町」の解説

大野町
おおのまち

[現在地名]金沢市大野町一―七丁目

宮腰みやのこし町の北東、大野川河口に位置する中世以来の湊町。安政三年(一八五六)までは大野村と称し郡奉行の管轄下にあったが、同年一一月町立てが認められ宮腰町奉行支配に移管された。

〔中世〕

古代には加賀郡に属したとみられ、同郡大野郷(和名抄)の遺称地。中世には郷名を継ぐ臨川りんせん(現京都市右京区)領大野庄が成立し、当地も同庄に含まれた。「源平盛衰記」巻二九(平家礪波並志雄二手事)によると、志雄しお山へ向かった平氏軍の搦手勢は白生しらお(白尾、現七塚町)を過ぎても「大野・徳蔵・宮腰」まで続いていたという。「義経記」巻七によると、弁慶は先行した義経に「大野の湊」で追いついている(→宮腰町。正和元年(一三一二)頃の白山水引神人沙汰進分注文案(三宮古記)に「宮腰代成用途二百文大野分別」とみえ、白山本宮に水引幕を上納し神人を称した紺掻業者の集住地にあげられ、宮腰と同様に銭で代納していた様子がうかがえる。応安二年(一三六九)一二月日の得江季員軍忠状(得江文書)に大野宿、同五年六月日の室町将軍家御教書案(臨川寺重書案文)に大野庄湊がみえる。大野宿は当地であろうが、大野庄湊は犀川・大野川両河川河口の湊を総称したものと解されている(→大野庄。永享九年(一四三七)五月七日、大野湊住人彦左衛門茂重は大野庄内の示野しめの村内一王丸と赤土あかつち村内中九郎名の散畠の毎年の得分「船斗之定拾斛」を心休禅門の追薦料として臨川寺に寄進している(「茂重寄進状」天龍寺文書)。茂重は一王丸名と中九郎名の名主職を買得した商人あるいは高利貸であろう。文明一三年(一四八一)五月二八日、土岐長沢治部少輔明長は、大野村小中左衛門五郎に預け置いた三〇〇貫文の請人である木越光徳きごしこうとく寺と「かなうらの平太郎」の違約を訴えている(政所賦銘引付)。同一四年一二月の大野庄年貢算用状(鹿王院文書)によれば、応永一五年(一四〇八)から「大野・宮腰在家地子銭」一〇貫文が山頽・浜成・河成を理由に免除されており、また「大野湊畠後年貢銭」が計上されているが、大野湊地子銭・同所節季銭などが未進とある。これらは明応四年(一四九五)一二月と同九年一二月の二通の年貢算用状(いずれも天龍寺文書)にもみえており、九年のものには「大野刀禰」の申請による米方年貢の下行分も記される。「天文日記」によれば天文二一年(一五五二)七月一八日、摂津石山本願寺の御堂当番(三十日番衆)として、光寺の代坊主大野の善明が上番している。

大野町
おおのまち

面積:一〇九・四九平方キロ

郡北部に位置し、北はよろいヶ岳・くも岳連山を隔てて大分郡野津原のつはる町、北東は大分市、東は犬飼いぬかい町・千歳ちとせ村、南東は三重みえ町、南は大野川を境にして清川きよかわ村・緒方おがた町、西は朝地あさじ町に接する。北部の峻険な山地帯を水源として南に流下するあかね川は町域ほぼ中央で流れを東に転じて十時ととき川などを合せながら東流する。茜川の西方を南へ流下する酒井寺さかいじ川は南西端で平井ひらい川に入り、同川は南東流して大野川に合流する。南部の大野川北岸には大野原おおのばる台地が広がり、南東部は代三五だいさんご山などの山地帯となっている。中央部をほぼ東西に国道五七号が走り、北へ主要地方道大分―大野線が分岐する。

大野町
おおのちよう

面積:三四・〇七平方キロ

郡の南東部に位置し、揖斐川根尾ねお(藪川)に挟まれて立地、北から西にかけては谷汲たにぐみ村・揖斐川いびがわ町・池田いけだ町、南から東にかけては安八あんぱち神戸ごうど町、本巣もとす巣南すなみ町・真正しんせい町・糸貫いとぬき町・本巣町と接する。郡内では珍しく町域の大半部が平地で、根尾川に沿うように三水みみず川が南流する。同川上流筋の古墳群と町域南部の上磯かみいそ古墳群が知られる。五之里ごのり六里ろくのりなど古代の条里遺構を示すと思われる地名が残り、南部の郡家ぐげは大野郡家の遺称であろうという。中世には皇室領の饗庭あえば庄、京都祇園社領の上秋かんだけ庄、九条家領の衣斐えび庄などが成立し、一方では国衙領として五里ごのり郷・郷などがあった。

大野町
おおのちよう

面積:一三四・八八平方キロ

昭和三二年(一九五七)一月大野村が町制を施行して成立した自治体。渡島支庁亀田かめだ郡に属する。東は七飯ななえ町、北は茅部かやべもり町、北西は檜山支庁檜山郡厚沢部あつさぶ町、西から南は上磯かみいそ郡上磯町に接する。北東を二股ふたまた(八二五・六メートル)弥五郎兵衛やごろべえ(六四九・九メートル)木地挽きじひき(六八三メートル)、北西を設計もつけ(七〇一・五メートル)毛無けなし(七五〇・六メートル)などに囲まれ、これらの山々から発するかみ・中・下の二股川、石川いしかわ沢・上川汲かみかつくみ沢などを集めた大野川が、町域中央部を北西から南東に流れる。

大野町
おおのまち

[現在地名]姫路市大野町

姫路城の北東にある町人町野里寺のざとてら町の北に続く生野いくの街道(但馬街道)沿いの南北の町筋。町名は当地が古代餝磨しかま郡大野郷(和名抄)であったことに由来するという(大正八年刊「姫路市史」)。中世は野里村で早くから鋳物師が住みつき活動した。慶長六年(一六〇一)の裏書がある野里村古地図に「野里ノ内いもし町」とある。外京そときよう口門東側の吹屋町がのち鋳物師いもじ町と改称したので、元禄八年(一六九五)写の姫路城図には野里と外京口門東の二ヵ所に「鋳物師町」がみえ、同一七年の姫路城城下町数飾万津町数覚(伊藤家文書)などには「野里鋳物師町」「京口鋳物師町」と書分けている。

大野町
おおのちよう

面積:七〇・四〇平方キロ

佐伯郡沿岸の西部に位置し、北東は廿日市はつかいち町、北は佐伯さいき町、西は大竹市に接し、東は大野ノ瀬戸を隔てて宮島みやじま町に相対する。面積の八割が山地で、沿岸部の複合扇状地沖積平野、海面埋立地に市街地が展開する。海岸線とほぼ平行して国道二号と国鉄山陽本線が並走する。国鉄宮島口みやじまぐち駅がある赤崎あかさきには広島電鉄宮島駅が連接し、厳島への連絡船があって宮島観光の基地となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大野町」の意味・わかりやすい解説

大野〔町〕
おおの

岐阜県南西部,揖斐川根尾川に挟まれた町。1932年町制。1954年豊木村,富秋村,西郡村の 3村と合体。1956年鶯村,1960年川合村をそれぞれ編入。古墳や条里制の遺構があり,大宝令の駅伝の町で歴史は古い。揖斐川と根尾川の扇状地と洪積台地上に位置し,中心集落の黒野は商業の中心地。農産物は米,カキなどで,富有柿は特産。北部の石灰岩山地にセメント工業が立地。国の史跡に野古墳群 (前方後円墳 4,円墳 3) ,国の天然記念物に揖斐二度ザクラがある。国道303号線が通じる。面積 34.20km2。人口 2万2041(2020)。

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