秋田城跡(読み)あきたじようあと

日本歴史地名大系 「秋田城跡」の解説

秋田城跡
あきたじようあと

[現在地名]秋田市寺内

秋田市の西北、高清水たかしみず丘陵上に建置された古代の城跡。旧雄物川の河口近く、雄物川流域の内陸諸盆地と結ばれ、南は庄内・由利と北は能代方面と海岸線で結ばれ、秋田平野の要衝の地として北方防備の拠点となった。秋田城は奈良時代初めからほぼ三世紀にわたって存続し、その間しばしば再建されている。

「続日本紀」天平五年(七三三)一二月二六日条に「出羽柵置於秋田村高清水岡」とあり、出羽国北部の開拓、蝦夷地経略のため出羽柵でわのきは最上川河口付近から北進して高清水岡に移建された。出羽柵の規模は明らかでないが、北方蝦夷地経略の進展につれ、秋田城と改称した。改称の時期は、「日本後紀」延暦二三年(八〇四)一一月二二日条に「出羽国言、秋田城建置以来余年、土地埆、不五穀、加以孤居北隅、無相救」とある。築城以来四〇余年を経過したとあるので、天平宝字八年(七六四)以前に秋田城となったと考えられる。天平宝字四年の丸部足人愁状(山田幸太郎氏蔵)に次のようにあり、越前の国から「阿支太城」に米を運搬していたことがわかる。

<資料は省略されています>

天長七年(八三〇)正月大地震が起き、秋田城のおもだった建物はことごとく倒壊した。「類聚国史」に「今日辰刻、大地震動、響如雷霆、登時城官舎四天王寺丈六仏像、四王堂舎等、皆悉顛倒、城内屋仆、撃死百姓十五人、支体折損之類一百余人也」とあり、秋田城に城郭・官舎・四天王寺・四王堂などが存在したことがわかる。

秋田城跡(秋田城跡発掘調査概報)
あきたじようせき

秋田城跡発掘調査事務所編 秋田市教育委員会刊

解説 昭和四七年以降の年次毎の発掘調査報告書。内容は調査経過・検出遺構と出土遺物・各層位出土遺物の図解考察。第二五次発掘の井戸跡出土墨書、紀年銘のある木簡などの解説が注目される。付録に秋田城関係古代文献史料を抄出・収録する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「秋田城跡」の解説

あきたじょうあと【秋田城跡】


秋田県秋田市寺内にある古代の城柵跡。大和政権は出羽経営の軍事・行政拠点として、出羽柵(でわのき)という城柵を現在の庄内地方(山形県)に置いた。その後、勢力圏の北進にともない、733年(天平5)、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田県秋田市)へ移設された。秋田へ移った出羽柵は、760年(天平宝字4)ごろに秋田城と改称された。国府が置かれ、渤海(ぼっかい)国からの使節がたびたび来訪し、日本海側の政治・文化・軍事の中心であった。878年(元慶2)、蝦夷(えみし)の大反乱が起き、秋田城は焼き討ちされたが、そのときに焼けた白壁材や炭などが、発掘調査によって発見された。その後、鎌倉時代の初期以降、秋田城は衰退したと考えられる。1939年(昭和14)に国の史跡に指定された。史跡指定後、学術調査や緊急調査が行われ、1辺約550mの四方を高さ3mの瓦葺き土塀が囲み、東西94m、南北77mにわたる政庁跡などが確認されている。人面墨書土器漆紙文書和同開珎(かいちん)、木簡などが出土し、掘立柱建物とトイレ遺構が一体となった造りの建物なども見つかっている。現在は外郭東門と築地塀などが復元されている。JR秋田新幹線ほか秋田駅から秋田中央交通バス「護国神社入口」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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