妙典寺(読み)みようてんじ

日本歴史地名大系 「妙典寺」の解説

妙典寺
みようてんじ

[現在地名]徳島市寺町

てら町の南西方にある。高井山龍光院と号し、法華宗(本門流)本尊は十界大曼荼羅。寺伝では明応六年(一四九七)創建で、開山は日相、日正を中興とする。古くは板野いたの勝瑞しようずい(現藍住町)にあり、三好氏から寺領七貫文・寺屋敷五反余を与えられていた(「阿州三好記大状前書」「阿州三好記並寺立屋敷割次第」徴古雑抄)

妙典寺
みようでんじ

[現在地名]和光市下新倉

下新倉しもにいくらのほぼ中央にある。長光山と号し、日蓮宗。一塔両尊四士を本尊とし、子安日蓮像を安置する。現戸田市新曾にいぞにある妙顕みようけん寺の旧末寺。日蓮の直弟子の一人佐渡阿闍梨日向を開山、この地の領主であった墨田五郎時光を開基檀越とし、文永年間(一二六四―七五)に創立されたという。妙顕寺は弘安二年(一二七九)から四年の間に新倉に創建され、至徳元年(一三八四)新曾に移転したとされ(「当山永記録」妙顕寺文書)、時光による開創の由緒を伝えている。文永八年佐渡流罪の身となり配所に向かう途次の日蓮が、たまたまこの地で時光の妻が難産で苦しんでいたのに出会い安産護符を書いて与え、無事男子が産まれた。

妙典寺
みようてんじ

[現在地名]博多区中呉服町

松林山と号し、日蓮宗。本尊は釈迦如来・多宝如来。寺伝によれば、永徳元年(一三八一)日円が筑後国柳川に建立、一八世日秀の時に立花三河守増時が糟屋かすや立花たちばな(現新宮町)に移し、一時立花氏預地の秋月(現甘木市)に移ったが、慶長年中(一五九六―一六一五)蓮池はすいけ町の現在地に移転したという。同八年妙覚みようかく(現京都市上京区)から弘法のために博多に下向していた日忠が当寺において耶蘇宗門徒と法論し勝利した。

妙典寺
みようでんじ

[現在地名]宇和島市妙典寺前

神田じんでん川右岸の谷あいにある。弘経山と号す。本尊日蓮上人像。宇和島藩領内では、妙長山法円寺と当寺のみが日蓮宗の寺院であった。文禄三年(一五九四)四月一三日、日相の開山(宇和旧記)

御年譜微考」に、元禄一四年(一七〇一)五月一四日、この夏の旱魃のため雨乞の祈祷をすると、その晩強い雨が降ったとあるように、当寺の住職は雨乞の祈祷で有名であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報