蓮池町(読み)はすいけまち

日本歴史地名大系 「蓮池町」の解説

蓮池町
はすいけまち

[現在地名]博多区中呉服町なかごふくまち上呉服町かみごふくまち

官内かんない町と交差する南北道を南に折れた道筋にある両側町。博多津中の東の出入口である石堂口より南、石堂川(御笠川)沿いに寺院が配置されている。同川から入定にゆうじよう(現真言宗九州教団)本岳ほんがく寺の間を通り川端かわばた町南境を経て那珂なか(博多川)へ通じる溝(大水道)が通る。西は東町上ひがしまちかみ・東町下の通り(福岡博多近隣古図)てら町とも称された(続風土記)。「筑前名所図会」には蓮池寺町諸梵刹図・蓮池寺町図が載り、当町の景観をうかがうことができる。永禄二年(一五五九)一〇月書写の高木分坪付帳(田村文書/筥崎宮史料)に、筥崎宮領のうち高木分の地の耕作人として「蓮池丁 九郎五郎」がみえる。

蓮池町
はすいけちよう

下京区寺町通高辻下ル京極きようごく

南北に通る寺町通(旧東京極大路)を挟む両側町。

平安京の条坊では町の西側は左京五条四坊三保一三町東側の一部で、東側は条坊外。平安時代中期以降は高辻東京極大路の地。鎌倉時代中期の暦仁元年(一二三八)には、摂家将軍九条頼経の上洛を契機に治安維持のため辻ごとに設けられた篝屋かがりやの一つが当町内にもあった(太平記)北野天満宮史料中の応永三二年(一四二五)・三三年の酒屋交名には「越前 五条京極北東頬 宗泉在判」とみえ、室町時代、当町に酒屋のあったことが知られる。

蓮池町
はすいけまち

[現在地名]高知市追手筋おうてすじ一丁目・廿代にじゆうだい町・はりまや町二―三丁目

細工さいく町・新市しんいち町の北側に並行する両側町。西は郭中かちゆう境の外堀、東はしん町境の横堀で、それぞれ橋で郭中追手筋、新町地区中新なかしん町に通ずる。高知城下建設にあたって、長宗我部氏時代の高岡郡蓮池(現土佐市)の町屋敷を移してつくった町。江戸時代中期の「高知風土記」によると東西一七三間、南北四〇間、家数五七。

蓮池町
はすいけちよう

[現在地名]水戸市城東じようとう三丁目

中之なかの町の東。しん町一町目から北に向かい浮草うきくさ町の境に至る町。「水府地理温故録」に「正保、万治の比ほひ南なる町十町目口木戸際左右(中略)の屋敷の間則ち蓮沼はすぬまなりしとぞ」とある。「水府地名考」は「この辺にて、都昔は沼なりしと見ゆ、故に蓮沼の名ありと見へたり」と記す。もと一帯が水田であったが、しだいに宅地となった。城中で使用する盆の蓮葉は寛文六年(一六六六)まで村松むらまつ(現那珂郡東海村)から納めていたが、同年以後千波せんば湖とこの蓮池から取るようになった。

蓮池町
はすのいけまち

[現在地名]佐賀市柳町やなぎまち

長崎街道に面する。柳町からさらに西へ進んで呉服ごふく町に連なる東西へ延びる町人町。嘉永七年(一八五四)の竈帳によれば、実竈数四五、人口は男一〇六人、女一二九人、合わせて二三五人。職業としてはそろばん屋が二軒あり、ほかには特徴はない。身分構成では町人は一二竈で、侍二竈、手明鑓一竈、徒士五竈、足軽一五竈など武家身分のものが多い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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