下新倉村(読み)しもにいくらむら

日本歴史地名大系 「下新倉村」の解説

下新倉村
しもにいくらむら

[現在地名]和光市下新倉・中央ちゆうおう一―二丁目・広沢ひろさわ西大和団地にしやまとだんち白子しらこ二―三丁目・みなみ一―二丁目

白子村の北西にあり、北を荒川と新河岸川が流れる。西は上新倉村。南部を川越街道が通る。小田原衆所領役帳の江戸衆川村跡として新倉五五貫文、同衆千葉殿知行分として新倉四〇貫文が記される。また江戸衆太田大膳亮知行分のうちには新倉与七郎分七貫文があり、この数値は天文二三年(一五五四)検地によるものであった。東明とうみよう寺蔵の元亀二年(一五七一)六月一日の年紀のある鰐口は河村弥二郎から吹上ふきあげ観音堂に寄進されたもので、銘には「武州新座下村福田山東明寺存貞代置□」とみえる。東明寺は下新倉村にあることから「下村」を下新倉村と解して戦国期には上・下二村に分れていたとも考えられる。なお湯原文左衛門家譜(萩藩閥閲録)によれば、湯原経景は寛喜年間(一二二九―三二)に武蔵国榑沼くれぬま(現不明)の修復を命じられ、この時「新倉并榑沼」の地頭職を与えられたとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報