大曾根村(読み)おおそねむら

日本歴史地名大系 「大曾根村」の解説

大曾根村
おおそねむら

[現在地名]北区大曾根一―三丁目・大曾根台おおそねだいたる町一―二丁目・綱島西つなしまにし二丁目

東は樽村、西南は太尾ふとお村に接し、北は綱島村鶴見つるみ川の間に飛地がある。田園簿に村名がみえる。元禄九年(一六九六)幕府直轄領。寛政六年(一七九四)三月の村明細帳(富川文書)では田一五町三反余、畑二六町九反余。元文二年(一七三七)には一町五反余の新田が検地された。年貢米津出しは鶴見川の綱島河岸から積出され、市場いちば河岸(現鶴見区)で海船へ移した。用水は樽村・太尾村と三ヵ村組合で用いている。南綱島村との間の綱島橋は土橋で、もとは板橋。寛政九年一〇月の土橋一ヶ所普請目論見帳(富川文書)によると、天明七年(一七八七)・寛政六年と幕府の普請があり、同九年九月の大雨出水で欠崩れ、当村とともに南北両綱島村で幕府の普請が行われた。

大曾根村
おおぞねむら

[現在地名]大穂町大曾根

若森わかもり村の南、筑波稲敷つくばいなしき台地の東縁辺に立地。東の桜川との間に水田が広がる。村域には縄文中期の土器が出土する大曾根A遺跡・大曾根B遺跡、縄文後期の土器が出土する吹上ふきあげ貝塚などがある。

文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「九百八十仁石壱斗四升三合三勺大そ根・わかもり」とあり、佐竹(東)義久知行地。佐竹氏移封後は天領、元和八年(一六二二)大名堀利重領、天和二年(一六八二)旗本堀田氏との相給となり、元禄元年(一六八八)に天領も設置された。

大曾根村
おおそねむら

[現在地名]八潮市大曾根

綾瀬川左岸の沖積地に位置し、北は中馬場なかばんば村・西袋にしぶくろ村。「風土記稿」は対岸の足立郡花又はなまた(現東京都足立区)について「古ヘ奥州海道カヽリシ所ナリ、(中略)奥州海道ノ渡津アリシ所ナリ」と記すが、当地の関家せきやは河関が置かれた所と伝える。田園簿では田方四八〇石余・畑方一一〇石余、ほかに野銭永三二三文があり幕府領。寛文二年(一六六二)旗本森川下総守領となり幕末に至る(「寛政重修諸家譜」など)

大曾根村
おおぞねむら

[現在地名]上野原町大曾根

大椚おおくぬぎ村の北東、つる川支流仲間なかま川の北岸山腹に位置する。南東鶴川つるかわ村。本村から北に一二町ばかり隔たった地に枝郷小倉おぐらがある。当村および大倉おおくら芦垣あしがき和見わみ桑久保くわくぼの五ヵ村はいずれも仲間川北岸にあって交流も深く、仲間入五ヵ村とよばれていた。またこの五ヵ村と大椚村文禄検地までは鶴川村のうちであったという(甲斐国志)。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控では鶴川村のうちに含まれて高付されていたと思われるが、「甲斐国志」は文禄検地時の家数は七軒であったと記す。寛文年中(一六六一―七三)検地帳・山畑検地帳(県立図書館蔵)によると漆・桑分を入れ高二八石余。

大曾根村
おおぞねむら

[現在地名]東区大曾根町・東大曾根ひがしおおぞね町・徳川とくがわ町・徳川二丁目、北区大曾根町・東大曾根町

春日井郡の南端に位置し、東は矢田やだ村と鍋屋上野なべやうえの(現千種区・東区)、北は山田やまだ下飯田しもいいだ(現北区)の両村、南は名古屋城下の東北部に隣接。木曾方面へ向かう交通および軍事上の要地であり、片山かたやま八幡神社はじめ社寺が集中し、街道沿いに町屋が続き、その背後には武家屋敷があった。風致も優れ、弘法の井や清柳きよやなぎの井など清泉にも富み、徳川光友の好みにかなって、退隠後の別荘が建てられた(徇行記、尾州名古屋御城下之図)。村名の曾根は、背根が語原で、都市の艮をさすとする説(尾張国地名考)や、地形からきたもので山の端(片山)とみる説などがある。

大曾根村
おおぞねむら

[現在地名]大和村大曾根

つばくろ山西麓にあり、北は本木もとぎ村。古代は「和名抄」記載の大苑おおそね郷の本郷の地とされる。中世は真壁氏の支配下にあり、寛喜元年(一二二九)七月一九日の将軍藤原頼経袖判下文(真壁文書)に大曾禰郷の名があり、弘安大田文には「大曾禰百十二丁四段六十歩」とある。慶長二年(一五九七)に麦田検地が行われ、真壁郡麦田検地帳(彰考館蔵)に「大曾禰村(中略)中田壱反七畝拾五歩、下田壱田六畝廿歩、合三反四畝五歩、右之麦三石四斗壱升七合、此内三ケ二引、残而壱石壱斗三升九合御定納」とある。

大曾根村
おおぞねむら

[現在地名]潟東村大曾根甲おおぞねこう称名しようみよう

今井いまい村の南に連なり、新木山しんきやま川に沿って立地、枝郷称名は東方一キロにあり茨島いばらじま村の南に連なる。古くは杢左衛門もくざえもん新田と称し、寛永一三年(一六三六)の新潟与亥御成ケ本帳(菊屋文書)前年に二九石九斗余の年貢米を上納とみえる。当初幕府領。正保国絵図は杢左衛門新田二二六石余とある。慶安二年(一六四九)以降は村上藩領。寛文四年(一六六四)の松平直矩知行目録(北方文化博物館蔵)には杢左衛門新田村とあり、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には大曾根村一一二石一斗余とあるので、この間に改称されたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報