大塚先儒墓所(読み)おおつかせんじゆぼしよ

日本歴史地名大系 「大塚先儒墓所」の解説

大塚先儒墓所
おおつかせんじゆぼしよ

[現在地名]文京区大塚五丁目

儒者の墓所で、豊島岡としまがおか墓地(江戸時代には護国寺・護持院境内)の北東部に接するように位置する。国指定史跡。寛文一一年(一六七一)水戸家の儒臣人見道生(卜幽軒)没後、小石川村地内の私邸(白賁園)埋葬された。室鳩巣も享保一九年(一七三四)に没すると、道生の墓所に近接した旧邸に埋葬された。寛政六年(一七九四)幕府の儒官柴野栗山・岡田寒泉尾藤二州(寛政の三博士と称された。寒泉はのちに代官として常陸に転出、古賀精里がこれに代わった)は連署して、幕府に儒葬を営むことのできる葬地の確保を願出、これを許された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「大塚先儒墓所」の解説

おおつかせんじゅぼしょ【大塚先儒墓所】


東京都文京区大塚にある儒葬形式の墓所。周辺には真言宗豊山(ぶざん)派別格本山の護国寺や明治天皇の第一皇子の墓所である豊島岡墓地などがある。大塚先儒墓所は明治維新後、荒廃して「儒者棄て場」などと言われていたが、1901年(明治34)に東京帝国大学総長、浜尾新らの提唱によって墓所の保存会が組織され、1921年(大正10)に国の史跡に指定された。もともとこの場所は徳川秀忠徳川頼房儒学の師であった人見道生(ひとみどうせい)の邸宅で、1670年(寛文10)に道生が没した際、遺体を邸宅内に葬ったのが儒葬墓地の始まりだとされる。古賀精里(こがせいり)、尾藤二洲(びとうじしゅう)ら寛政の三博士(寛政の三助)をはじめ、木下順庵、室鳩巣(むろきゅうそう)らの墓がある。墓石は仏式よりもやや細長い「柱」状のものがあり、儒者ごとに墓域の区画割りがなされ、見学通路も設けられている。東京メトロ有楽町線護国寺駅から徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報