徳川頼房(読み)とくがわよりふさ

精選版 日本国語大辞典 「徳川頼房」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐よりふさ【徳川頼房】

江戸初期の大名。家康の一一男。水戸家の祖。幼名鶴千代。はじめ下妻一〇万石、のち水戸二五万石を領する。慶長八~寛文元年(一六〇三‐六一

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デジタル大辞泉 「徳川頼房」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐よりふさ〔トクがは‐〕【徳川頼房】

[1603~1661]江戸初期の水戸藩主。家康の一一男。水戸徳川家の祖。水戸28万石の領主となり、水戸藩を創始。威公。→水戸家

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改訂新版 世界大百科事典 「徳川頼房」の意味・わかりやすい解説

徳川頼房 (とくがわよりふさ)
生没年:1603-61(慶長8-寛文1)

江戸前期の大名。水戸徳川家の初代徳川家康の十一男として伏見城で生まれる。母は養珠院(お万の方)。幼名は鶴千代。諡(おくりな)は威公。1606年(慶長11)常陸下妻10万石に封ぜられ,09年水戸に移封,25万石の城主となり,のち28万石。佐竹氏秋田への国替のあと,家臣団編成,水戸城の拡大,城下町整備,41年(寛永18)全領検地の実施などで,水戸藩の基礎を築いた。権中納言。61年7月江戸で没し,儒葬をもって瑞竜山(常陸太田市)水戸家の墓地に葬られた。
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朝日日本歴史人物事典 「徳川頼房」の解説

徳川頼房

没年:寛文1.7.29(1661.8.17)
生年:慶長8.8.10(1603.9.15)
江戸前期,水戸徳川家の祖。幼名鶴千代。徳川家康の11男で,母は側室お万の方(蔭山氏)。伏見城で誕生,慶長11(1606)年に常陸下妻10万石を給され,同14年には下妻をあらため水戸城25万石,官位は従四位下侍従左衛門督となる。このおり幕府から付家老として中山信吉(備前守)が1万5000石をもって付けられた。頼房の石高はのち加増されて28万石,官位は同16年に家康に従って上洛したとき正四位下少将,元和6(1620)年に参議,寛永3(1626)年の後水尾天皇の二条城行幸に際して従三位権中納言に昇進し,翌年に正三位。この三位中納言(中納言の唐名が「黄門」)が水戸徳川家の家格となる。頼房は寛文1(1661)年に江戸で没。長男頼重は讃岐国(香川県)高松藩主となり,次男光圀が水戸徳川家を嗣いだ。<参考文献>斎藤桜淋『徳川頼房卿伝』

(笠谷和比古)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川頼房」の意味・わかりやすい解説

徳川頼房
とくがわよりふさ
(1603―1661)

江戸前期の大名。御三家一つの水戸家の祖。慶長(けいちょう)8年8月10日、徳川家康62歳のとき、末子として伏見(ふしみ)城で生まれる。幼名は鶴千代(つるちよ)(鶴松(つるまつ))。母は正木頼忠(まさきよりただ)の娘於万(おまん)の方。養母は家康の側室於勝(おかち)の方(太田氏)。3歳のとき下妻(しもつま)10万石に封ぜられたが、藩政は城代や付家老(つけがろう)があたった。鶴千代が水戸25万石の城主となったのは1609年(慶長14)12月12日、7歳のときである。頼房の藩政は、59歳、水戸城で没するまで、53年の長期に及んだ。学問に励み、神道(しんとう)を学ぶなど、2代の光圀(みつくに)にも影響を与えたといわれる。領内総検地、城下町の開設、新田の開発などにも努め、水戸藩の基礎を築いた。死後威公と諡(おくりな)された。

[瀬谷義彦]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川頼房」の解説

徳川頼房 とくがわ-よりふさ

1603-1661 江戸時代前期の大名。
慶長8年8月10日生まれ。徳川家康の11男。母はお万の方(養珠院)。常陸(ひたち)(茨城県)下妻(しもつま)藩をへて,慶長14年水戸藩主徳川家初代。28万石。正三位,権(ごんの)中納言。水戸の城下町の整備,領内の検地などにつとめる。寛永6年江戸小石川の後楽園の築造に着手した。寛文元年7月29日死去。59歳。幼名は鶴千代。諡(おくりな)は威公。
【格言など】よいことを自分でひとりじめにし,過ちをひとのせいにしてはならぬ(老臣をいさめたことば)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳川頼房」の解説

徳川頼房
とくがわよりふさ

1603.8.10~61.7.29

江戸前期の大名。御三家の一つ水戸徳川家の祖。徳川家康の十一男。母は側室養珠院(お万の方)。1605年(慶長10)3歳で常陸国下妻10万石に封じられ,09年に同国水戸25万石の藩主となり,22年(元和8)3万石を加増されて28万石を領した。入国は19年で,この間付家老(つけがろう)の中山信吉らが藩政を行った。入国後は水戸城下町の建設,領内総検地の実施,鉱山開発など藩政の整備に努めた。26年(寛永3)従三位権中納言に叙任。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川頼房」の意味・わかりやすい解説

徳川頼房
とくがわよりふさ

[生]慶長8(1603).8.10. 伏見
[没]寛文1(1661).7.29. 江戸
江戸時代前期,初代水戸藩主。家康の 11男。母は於万の方。死後,威公と呼ばれた。慶長 14 (1609) 年水戸 25万石を領したが,のち 28万石に加増。御三家の一つ水戸藩の基礎を築いた。大坂夏の陣に出陣。参議左中将から権中納言。

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367日誕生日大事典 「徳川頼房」の解説

徳川頼房 (とくがわよりふさ)

生年月日:1603年8月10日
江戸時代前期の大名
1661年没

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世界大百科事典(旧版)内の徳川頼房の言及

【後楽園】より

…その名称はともに中国宋代の范文正《岳陽楼記》の〈士当先天下之憂而憂 後天下之楽而楽〉からつけられた。
[小石川後楽園]
 水戸藩初代の徳川頼房が徳川家光から江戸中屋敷として与えられた地に1629年(寛永6)築造を始めた。2代光圀(みつくに)もこれを継承し,中国明の遺臣朱舜水の意見を用いて中国趣味を付け加え,市民にも観覧を許可した。…

【中山氏】より

…水戸藩の付家老。家譜によれば宣化天皇の裔,姓は丹治,子孫は武蔵に住し,のち中山氏を称したという。信吉のとき徳川家康に仕え,1607年(慶長12)家康の命で十一男の頼房の守役(もりやく)となり,14年頼房が水戸藩主となると,付家老となって水戸領内で1万5000石の知行地を与えられた。14代信徴(のぶあき)のとき維新政府のもとで,1868年(明治1)1月,他の三家付家老とともに藩屛に列せられ,2万5000石の松岡藩として独立した。…

【水戸[市]】より

…茨城県中央部にある県庁所在都市。1889年市制。1992年常澄村を編入。人口24万6347(1995)。市域の大半は常陸台地と那珂川沖積地に広がる。主要市街地は,那珂川と千波(せんば)湖にはさまれた台地上の上市(うわいち)と那珂川の沖積低地上の下市(しもいち)とからなる。12世紀末,大掾資幹(だいじようすけもと)が館を置き,佐竹氏の支配を経て近世に水戸藩の城下町となってから大きく発展した。1889年,両地区の接点に常磐線水戸駅が開設されたが,行政中心は上市に置かれ,以後の都市発展は上市が中心となった。…

※「徳川頼房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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