護国寺(読み)ごこくじ

精選版 日本国語大辞典 「護国寺」の意味・読み・例文・類語

ごこく‐じ【護国寺】

東京都文京区大塚にある真言宗豊山派別格本山。山号は神齢山。天和元年(一六八一徳川綱吉が生母桂昌院のために創建。開山は亮賢。一時護持院と称した。本堂(観音堂)、月光殿(旧園城寺客殿)は国重要文化財大隈重信山県有朋などの墓がある。音羽の護国寺。

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デジタル大辞泉 「護国寺」の意味・読み・例文・類語

ごこく‐じ【護国寺】

東京都文京区大塚にある真言宗豊山ぶざんの別格本山。山号は神齢山、院号は悉地院。開創年代は天和元年(1681)、開基は桂昌院、開山は亮賢。18世紀初め神田の護持院焼失後護持院と称したが、明治になり旧寺号に復した。

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日本歴史地名大系 「護国寺」の解説

護国寺
ごこくじ

[現在地名]南淡町賀集八幡

南辺寺なんべんじ山西裾にある。賀集山と号し高野山真言宗、本尊は大日如来賀集かしゆう庄鎮守であった賀集八幡神社と別当寺の護国寺は暦応三年(一三四〇)細川師氏が淡路の南朝方と戦うにあたり願を立て勝利し、宇原兵衛入道跡の一四町、修理免として八町を寄進したとされ、以降歴代淡路守護細川氏から崇敬されたという(文明元年六月一一日「賀集寺社僧衆徒等目安案」護国寺文書、以下断りのない限り同文書)。細川氏の入国によって国衙が消滅し惣社(現三原町十一明神神社)に代わって信仰を集めたものと考えられる。応永二年(一三九五)八月一五日中村氏成から野田のた名の地九〇歩を寄進されたのをはじめ、室町期に周辺の国人層から田地寄進がなされている(中村氏成田地寄進状など)。永徳四年(一三八四)成相なりあい(現三原町)の乗賢が勧進して造営を遂げたが、このとき同寺の覚定(守護代子息)が権威を募って一時護国寺を支配するようになっていた(年未詳閏正月二九日某書状)。至徳三年(一三八六)六月一日の賀集八幡宮寺領田地注文では賀集庄のほか福良ふくら西山にしやま両庄などに本家・領家・地頭の三方から寄進された御影供田二反ほかがあった。

護国寺
ごこくじ

[現在地名]那覇市若狭一丁目

波上なみのうえ宮の南側に隣接して位置する。波上山三光さんこう院と号し、高野山真言宗。本尊は聖観音。俗に波上なんみんの寺という。琉球における真言宗第一の巨刹で、創建年代は判明しないが、国家鎮守の祈願所として尊崇された(琉球国由来記)。康熙五八年(一七一九)冊封使として来琉した徐葆光の「中山伝信録」も国王の祈願所と記し、同二二年冊封使正使の汪楫が揮毫した「護国寺」の扁額が掲げてあり、旧名を安禅あんぜん(「大安禅寺の鐘」にちなんだものか)とか海山かいざん寺あるいは三光院(当寺の院号)ともいうとある。国王祈願所ということに関係してか、「琉球国由来記」および「遺老説伝」によれば、王が即位すると吉日を選び、当寺において諸臣に霊社の神文を焼いて水に溶かした神水を飲ませ、諸間切には検者を遣わし神水を飲ませて、君臣の義を守り二心がないことを誓わせ、中国に渡航する役人はすべて護国寺において血判をさせられたという。間切集成図には天尊てんそん(廟)と並んで寺名がみえる。

「球陽」尚真王四六年(一五二二)条や「琉球国由来記」によると、護国寺の開山住僧である日本僧の頼重は察度王代の洪武一七年(一三八四)に入滅しており、当寺は察度王が建立し、愛染明王・弘法大師地蔵菩薩・不動明王を奉安したという。

護国寺
ごこくじ

[現在地名]文京区大塚五丁目

神齢山悉地院と号し、真言宗豊山派大本山。天和元年(一六八一)五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院(三代将軍徳川家光の側室、於玉)の発願によって創建され、江戸時代を通じて幕府の祈願所として栄えた。開山は上野国碓氷うすい八幡宮(現群馬県高崎市八幡八幡宮)前別当、大聖護国だいしようごこく(現高崎市)前住亮賢。正保三年(一六四六)於玉は男児(徳松、のちの綱吉)を出産、このとき亮賢の護持・祈祷によってこの男児を得たとも伝える。延宝八年(一六八〇)綱吉の兄、四代将軍徳川家綱は継子のないまま病死、それ以前に綱吉の兄(家綱の弟)二人も死んでいたことから綱吉が五代将軍となった。桂昌院はこの強運もあって、いっそう亮賢に帰依、翌天和元年綱吉に幕府の牛込御薬園(大塚御薬園)の地を請い、亮賢を開山に一寺を建立することとした。新寺には寺領として高三〇〇石を寄進(「徳川実紀」など)。桂昌院の念持仏である天然琥珀如意輪観音を本尊に、翌二年には堂宇が完成、京都仁和寺の直末寺となった。

護国寺
ごこくじ

[現在地名]橋本市隅田町下兵庫

下兵庫しもひようごの集落北辺に位置する。真言律宗で本尊は大日如来。覚王山利生院と号し、大寺おおてらともいう。行基建立四九院の一つとされ(「利生護国寺縁起」護国寺文書)利生護国りしようごこく寺と称し、古くは地名にちなんで兵庫寺とも称した(続風土記)。弘安八年(一二八五)一〇月六日の沙弥願心寄進状案(護国寺文書)によれば、隅田氏一族上田氏の祖とされる沙弥願心が、利生護国寺三宝物料として隅田すだ北荘内兵庫荒野を寄進しており、この頃より隅田一族の氏寺となったようである。同九年四月二七日の藤原業能・同泰能連署注進状案(同文書)には寺敷地の四至として「東限湯屋谷、南限大道、西限白井谷、北限御山際」とあり、南は大和街道に面した広い寺地を有していた。

利生護国寺縁起は北条時頼の中興とするが、これは時頼の諸国巡察伝説の縁起への反映と思われる。

護国寺
ごこくじ

[現在地名]稚内市大字宗谷村字宗谷

市域北東部、宗谷岬に程近い宗谷公園に位置。泰平山松寿院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。近世に蝦夷地最北に建立された寺院。蝦夷三官寺の一つ東蝦夷地ウス善光寺(現伊達市)の末寺として一八五九年(安政六年)三月、ソウヤ運上屋下に寺地・墓所地の割渡しを受け創建(宗谷護国寺古文書)。ヨイチ宝隆ほうりゆう(現余市町)・イシカリ法性ほうしよう(現石狩市)とともに「新蝦夷三官寺」と並び称される。和人定住化政策を反映し、箱館開港後に蝦夷地への建立が許可された三〇余の寺院群のうち、新三官寺だけはそれぞれ建立地を箱館奉行所により指定された(道立文書館蔵箱館奉行所文書)

護国寺
ごこくじ

[現在地名]吹田市高浜町

曹洞宗、山号牛頭山、本尊地蔵菩薩。康暦二年(一三八〇)畠山氏の外護で竺山が創建、師の道元六世の法孫大徹を開山に仰ぎ護久ごきゆう寺と号したが、のち足利義満の命で現寺号に改めたという(日本洞上連灯録・本朝高僧伝)。寺蔵文書によると、義満は護久寺に康応二年(一三九〇)三月一八日摂津国散在田を寄進し、明徳二年(一三九一)一〇月二二日護久寺を祈願寺としている。現寺号に改めたのは同年以後のことであろう。次いで足利義持は応永一八年(一四一一)一〇月一一日護国寺ならびに塔頭善住ぜんじゆう庵の寺領を安堵し、天文四年(一五三五)八月二三日には、細川晴元が寺領を安堵し、段銭臨時課役などを免除している。

護国寺
ごこくじ

[現在地名]神辺町道上

浄光じようこう寺の北方にあり、高木山と号し、高野山真言宗。本尊釈迦如来。

「福山志料」は、塔の跡や門前という所があり、国分寺であろうと記し、「西備名区」も「当寺開基聖武天皇、毎国国分寺護国寺御造営ありし一刹なり、何時の比よりか国分寺と倶に衰微して、今小地となり、広山寺の末寺とは成つてけり、山内に塔の跡あり、山下に大門の跡あり、寺地の景色実に大寺の廃せし跡と見へたり、往昔の所謂金光明護国寺とは是なるべし」と記す。

護国寺
ごこくじ

[現在地名]水戸市見川一丁目

桜川を東に望む台地の東端に位置し、彰考しようこう館の南にある。緑岡山多宝院と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。

「見川誌」に「笠原山銀河寺多宝院、栗崎仏性寺末、開基未詳、慶長ノ比円蔵坊ト云(中略)本尊不動尊智証大師之作仏也」とみえる。もとは荒野あらや(現見川四丁目)にあり、寛文六年(一六六六)破却されたが、元禄三年(一六九〇)現在地に中興。宝暦年間(一七五一―六四)に焼け、明和年間(一七六四―七二)に再建と伝える。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「護国寺」の意味・わかりやすい解説

護国寺
ごこくじ

東京都文京区大塚にある真言宗豊山(ぶざん)派の別格本山で、同派の関東における中心である。正式には神齢山(しんれいざん)悉地院(しっちいん)大聖護国寺と称し、東京小石川の音羽(おとわ)にあるので音羽の護国寺の名で知られている。1681年(天和1)5代将軍徳川綱吉(つなよし)の生母桂昌院(けいしょういん)の発願で雑司ヶ谷(ぞうしがや)大塚薬園の地に創建。開基は亮賢(りょうけん)。本尊の如意輪観音(にょいりんかんのん)は桂昌院の持仏。当時、これと並んで江戸神田御門外に柳沢吉保(よしやす)を奉行(ぶぎょう)として護持院が創建されたが、1717年(享保2)に焼失し、当時の将軍吉宗(よしむね)は再建を許さず、音羽の護国寺を護持院と改称、境内の観音堂を護国寺と称し、以後護持院の住職が兼住し、両寺領あわせて2700石を有した。1724年(享保9)に幕命により長谷寺小池坊派に所属したが、明治維新後両寺を統一し、護持院の寺号を廃止して現在に至る。現在の本堂(観音堂)は1697年(元禄10)の建立で七面七層入母屋造(いりもやづくり)、月光殿は園城寺(おんじょうじ)日光院客殿を明治維新後に移築した桃山期の代表的書院造で、本堂とともに国の重要文化財。寺宝に尊勝曼荼羅図(そんしょうまんだらず)、金銅五鈷鈴(ごこれい)(いずれも国重要文化財)などがある。境内には不昧軒(ふまいけん)、仲磨堂(ちゅうまどう)、茶室などもある。

[祖父江章子]

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改訂新版 世界大百科事典 「護国寺」の意味・わかりやすい解説

護国寺 (ごこくじ)

東京都文京区にある真言宗豊山派の寺。山号は神齢山。5代将軍綱吉の生母桂昌院の帰依を受けた亮賢僧正を開山とし,1681年(天和1)に創建された。亮賢は上野国八幡別当大聖護国寺の住持で,綱吉の安産を祈って験があったといわれる。同じころ,将軍母子の帰依を受けて隆盛を極めていた護持院が,1717年(享保2)の大火で灰燼(かいじん)に帰すと,幕府は再興を許さず,その地を合併して当寺を護持院と改め,境内の観音堂を護国寺と改称させてしまった。しかし明治の初め,両寺は合併して護持院は廃寺となり,当寺に統合された。当初は朱印300石であったが,1694年(元禄7)将軍母子の参詣に際し寺領300石を加えられ,その後逐年加増されて朱印1200石となり,さらに護持院炎上後は同寺領を合わせて2700石にまで達した。江戸の真言寺院中最大の規模と寺勢を誇った巨刹である。墓地には三条実美,山県有朋,大隈重信ら名士の墓が多い。近くに国史跡の儒者の墓がある。
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護国寺 (ごこくじ)

沖縄県那覇市にある高野山真言宗の寺。山号は波上山。開山は,縁起や史書には薩摩国坊津一乗院より来琉した頼重法印とし,1384年に入滅したという。しかし,その護国寺は浦添城(現,浦添市)近くにあったもので,現在の寺は現所在地にあった大安禅寺が廃絶した跡に日秀上人が開創したとの説もある。琉球真言宗の本山で役知50石の官寺。波上宮(なみのうえぐう)を併置していた。正月11日の御祈禱,5,9月の御祈念,12月の仏名会を国王の居所で(仏名会はのち当寺で)行った。干ばつには国王みずから当寺で祈雨した。1688年には薩摩大乗院の末寺となる。幕末期には天久の聖現寺と共に外国人接見の公館となり,イギリス人布教師ベッテルハイムも1845年から8年間,当寺に居住した。明治の神仏分離で波上宮を分離。現在,本堂内の諸仏・諸菩薩は,聖観音(ね),虚空蔵菩薩(うし・とら)など十二支に当てられ,民間宗教者,庶民の参詣が多い。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「護国寺」の解説

護国寺
ごこくじ

東京都文京区にある真言宗豊山派の大本山。神齢山悉地(しつじ)院と号す。1681年(天和元)5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が帰依する亮賢(りょうけん)を開山として開創。3代目住持快意のとき将軍家の祈願寺となり,真言宗新義派のなかで江戸城竹橋外の護持院につぐ地位を占めた。1717年(享保2)護持院が焼失すると,当寺本坊が護持院となり,観音堂のみを護国寺と称して住持は護持院兼務となった。1868年(明治元)護持院が廃されると,護国寺が寺地を継承,現在に至る。本堂(重文)は1698年(元禄11)綱吉の建立。月光殿(重文)は園城寺塔頭(たっちゅう)の日光院客殿を移建したもので,桃山建築として知られる。

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防府市歴史用語集 「護国寺」の解説

護国寺

 本橋町にあるお寺で、鎌倉時代につくられた笠塔婆[かさとうば]という死者を供養するための石塔があります。いつ建てられたかはわかりませんが、当初は宝積寺[ほうしゃくじ]と呼ばれていました。しかし、三田尻宰判[みたじりさいばん]の中に同じ名前があるので、江戸時代の中頃に護国寺という名前に変わりました。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

百科事典マイペディア 「護国寺」の意味・わかりやすい解説

護国寺【ごこくじ】

東京都文京区大塚にある真言宗豊山(ぶざん)派の寺。1681年徳川綱吉が生母桂昌院の願いにより創建。開基は亮賢,如意輪観音が本尊。護持院火災後その名を称したが,明治以後旧に復した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「護国寺」の意味・わかりやすい解説

護国寺
ごこくじ

東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の寺。神齢山悉地院と号する。天和1 (1681) 年,徳川綱吉の生母桂昌院の願によって創立したもの。亮賢の開基。享保2 (1717) 年神田にあった護持院が焼けたのち,護持院と称したが,明治になって護国寺という名に戻った。

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デジタル大辞泉プラス 「護国寺」の解説

護国寺〔東京都〕

東京都文京区にある寺院。真言宗豊山派。山号は神齢山。本尊は如意輪観世音菩薩。徳川綱吉の生母、桂昌院により1681年に開創。本殿、月光殿は国の重要文化財に指定。

護国寺〔沖縄県〕

沖縄県那覇市にある高野山真言宗の寺院。1368年創建と伝わる。山号は波上山、院号は三光院。本尊は聖観世音菩薩。琉球国王、察度(さっと)王の勅願寺として建立。

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旺文社日本史事典 三訂版 「護国寺」の解説

護国寺
ごこくじ

東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の大本山
1681年徳川綱吉の生母桂昌院の発願で建立された。開山は桂昌院が帰依した僧亮賢。

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