吉田奈良丸(読み)ヨシダナラマル

デジタル大辞泉 「吉田奈良丸」の意味・読み・例文・類語

よしだ‐ならまる【吉田奈良丸】

[?~1967]浪曲師。2世。奈良の生まれ。優美節調評判をよび、「奈良丸くずし」という歌謡まで流行明治から大正にかけて桃中軒雲右衛門人気二分した。

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精選版 日本国語大辞典 「吉田奈良丸」の意味・読み・例文・類語

よしだ‐ならまる【吉田奈良丸】

浪曲家。二世奈良県生まれ。本名広橋広吉。初め花川若力と称し祭文(さいもん)を語っていたが、初世入門。新体詩風の優美な語り口創始。明治末期から大正初期にかけて桃中軒雲右衛門と人気を二分した。「赤穂義士伝」を得意とし、その一節をとった「奈良丸くずし」が流行した。明治一三~昭和四二年(一八八〇‐一九六七

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改訂新版 世界大百科事典 「吉田奈良丸」の意味・わかりやすい解説

吉田奈良丸 (よしだならまる)

浪曲家。(1)初代(?-1915(大正4)) 奈良の人。音丸門下。(2)2代(1880-1967・明治13-昭和42) 本名広橋宏吉。奈良県生れ。明治末から関西の雄として,東の桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん)とともに天下に並び称せられた。優美,平易な節調で人気を博し,その名調子はレコードによって全国を風靡した。得意の《義士伝》の一節は,《奈良丸くづし》という歌謡曲にまでなった。晩年は大和之丞(やまとのじよう)と改名している。(3)3代(1898-1978・明治31-昭和53) 本名炭田嘉一郎。2代門下。師の節調に渋い重みを加えた昭和の関西の重鎮として知られる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田奈良丸」の意味・わかりやすい解説

吉田奈良丸
よしだならまる
(1883―1967)

浪曲師。2代目。本名広橋広吉。奈良県生まれ。花川力丸と名のる祭文(さいもん)語りであったが、大阪に出て浮連節(うかれぶし)で一家をなしていた初代奈良丸(?―1923)に入門、才能と美声によって1902年(明治35)に2代目を襲名した。09年、「日本一吉田奈良丸」という宣伝で上京して物議を醸したが、華族会館で口演するなど、美文調の詞(ことば)遣いと上品な語り口で、豪放な桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)と人気を競った。明治末からレコードに吹き込んだ『義士伝』は当時のベストセラーで、優美な「奈良丸節」を全国的なものにした。とくに『大高源吾(おおたかげんご)』の一節は流行歌に取り入れられ「奈良丸くずし」としてヒットした。17年(大正6)の渡米に際しては、総理大臣原敬(はらたかし)の仲介でウィルソン大統領と面会するなど、国際的名士となった。

[秩父久方]

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百科事典マイペディア 「吉田奈良丸」の意味・わかりやすい解説

吉田奈良丸【よしだならまる】

浪曲師の芸名。4世まである。2世〔1883-1967〕は奈良県出身。1902年襲名し,関西で活躍。東京の桃中軒雲右衛門と並んで浪曲改革にあたった。平明優美な節調をもち,義士伝を得意とし,その語り口は《奈良丸くずし》という俗曲となって流行するほどであった。
→関連項目浪曲

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世界大百科事典(旧版)内の吉田奈良丸の言及

【浪花節】より

…以後,春日井松之助を頭取(とうどり)とした〈東京浪花節組合〉,井上晴夢を取締役とする関西うかれ節組合〈愛国社〉とが設立され,浪花節は隆盛の一途をたどったが,とくに日露戦争後は,忠君愛国をテーマとすることで国粋主義の時流に乗って大発展をとげた。この近代浪曲確立期の推進力となったのは,桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん),吉田奈良丸京山小円(こえん)の三巨人だった。雲右衛門は,諸国放浪ののち,豪放雄健な節調を確立し,台本も整備し,《義士伝》をはじめとして演題も選択して,品位ある高座によって浪花節の社会的地位を向上させた。…

※「吉田奈良丸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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