精選版 日本国語大辞典 「桃中軒雲右衛門」の意味・読み・例文・類語
とうちゅうけん‐くもえもん タウチュウケンくもヱモン【桃中軒雲右衛門】
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浪曲家。本名岡本峰吉。茨城県生れ。祭文(さいもん)語りの父吉川繁吉について修業し,小繁から父の芸名を継いだ。のち桃中軒雲右衛門となって琵琶や清元の節調を加味した荘重豪快な節を創始し,従来の浪曲家にみられた野卑な演題を整理し,台本を作成して内容を高めた。関西,九州と巡業して人気を集め,1906年に東京本郷座において赤穂浪士を題材とする《義士銘々伝》を口演して満都の注目を集め,12年には歌舞伎座でも独演会を開いて満員の客を呼んだ。得意とした《義士銘々伝》などによって武士道を鼓吹して浪曲の格式を向上させ,大道芸として低級視されてきた浪曲(浪花節(なにわぶし))の社会的地位を高めた。雄渾荘重な雲右衛門節を確立し,関東節の祖として,関西の重鎮2代吉田奈良丸とともに浪曲史上に大きな足跡を残した。晩年はトレードマークの長髪を切り,雲入道と称して風格ある高座を展開していたが,肺結核のために44年の生涯を終えた。その生涯はのち真山青果などによって劇化されている。
→浪花節
執筆者:興津 要
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浪曲師。本名岡本峰吉。上州祭文(さいもん)の黒繁(くろしげ)こと吉川繁吉の次男として群馬県に生まれる。小繁と名のり東京・浅草の掛け小屋で人気をとったが、父の死後、名跡を継いで浪花節(なにわぶし)へ転向した。1898年(明治31)、市川梅車(ばいしゃ)一座に客演中、梅車の妻でお浜という三味線の名手と駆け落ちして関西へ去る。その後九州まで放浪し、孫文とも親交のあった壮士宮崎滔天(とうてん)らと知り合い、その後援を得て、忠臣蔵を題材に台本を整備し、伴奏も関西風な水調子に九州系の琵琶(びわ)の手を加味して芸風を一新、名も桃中軒雲右衛門と変え、ついに九州で第一人者となった。
1907年(明治40)3月の関西公演で成功、その勢いにのって同年6月、東京・本郷座で「武士道鼓吹」の看板の下に、27日間『義士銘々伝(めいめいでん)』を口演し続けて大成功を収めた。テーブル掛けで覆った机の前に立って口演するというこのときの演出方法は、その後の浪曲界の興行形態に大きな影響を与えた。13年(大正2)相三味線でもあったお浜が肺結核で没したあと、雲右衛門も急速に衰えをみせて、以後新作を発表することなく、大正5年11月7日、同じ病で没した。
[秩父久方]
(倉田喜弘)
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…以後,春日井松之助を頭取(とうどり)とした〈東京浪花節組合〉,井上晴夢を取締役とする関西うかれ節組合〈愛国社〉とが設立され,浪花節は隆盛の一途をたどったが,とくに日露戦争後は,忠君愛国をテーマとすることで国粋主義の時流に乗って大発展をとげた。この近代浪曲確立期の推進力となったのは,桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん),吉田奈良丸,京山小円(こえん)の三巨人だった。雲右衛門は,諸国放浪ののち,豪放雄健な節調を確立し,台本も整備し,《義士伝》をはじめとして演題も選択して,品位ある高座によって浪花節の社会的地位を向上させた。…
…講談,浪曲の演目。もともとは,講談の《義士外伝》の一編として読まれていたものを,浪曲中興の祖といわれる桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん)が口演してより,浪曲の人気演目となり,2代吉田奈良丸,2代東家楽遊(あずまやらくゆう)などが十八番として売った。大石良雄が,仇討の前日,雪の降りしきるなか江戸赤坂は南部坂付近に隠遁していた瑶泉院を訪れ,それとなく別れを告げて立ち去る一席物。…
※「桃中軒雲右衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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