日光街道(読み)ニッコウカイドウ

デジタル大辞泉 「日光街道」の意味・読み・例文・類語

にっこう‐かいどう〔ニツクワウカイダウ〕【日光街道】

江戸時代五街道の一。江戸から宇都宮を経て日光に至る街道。千住せんじゅから宇都宮までは奥州街道を兼ねる。日光道中

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精選版 日本国語大辞典 「日光街道」の意味・読み・例文・類語

にっこう‐かいどう ニックヮウカイダウ【日光街道】

東京から宇都宮市を経て日光市に至る道路。江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として、千住から宇都宮までの一七宿は奥州街道と同じ道を通り、宇都宮から分かれて徳次良・大沢・今市・鉢石を経由して日光に至る。日光道中。

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日本歴史地名大系 「日光街道」の解説

日光街道
につこうかいどう

近世幕藩体制下の五街道の一つ。徳川家康廟である東照宮および家光の大猷たいゆう院廟への参詣路で、江戸から宇都宮宿を経て鉢石はついし宿(現日光市)まで二一宿。脇道として、江戸本郷追分で中山道と分れ、鳩谷はとがや宿(現埼玉県鳩ヶ谷市)岩槻いわつき宿(現同県岩槻市)等を経て、幸手さつて宿(現同県幸手市)で日光街道に合流する御成おなり道、小山おやま宿の北で北西に分れて壬生みぶ宿を通り、例幣使街道を合し、今市宿で再び合流する壬生通がある。

もともと幕府成立当時は、江戸から奥州への道として重視され、慶長七年(一六〇二)には、宇都宮町へ地子免許状が出され、伝馬役勤務が義務づけられている。これに基づき宇都宮以南の街道は、奥州街道として整備され始めた。各宿の起源は十分に確認はできないが、例えば小金井こがねい宿(現下都賀郡国分寺町)では、慶長七年一二月より屋敷の移動が始まっており、同九年には、それまでの集落を「小金井本郷」と「古宿」とよび、双方からの移住者を交え、問屋は五人の輪番とするという、町割の定めが行われている。元和二年(一六一六)から日光山に家康廟造営が開始され、江戸―日光間の公用通行が急速に増大するにあたっては、喜沢きざわ(現小山市)からおもい川に沿って北上する壬生通がまず整備された。家康の遺骸も、久能くのう(現静岡市)から改葬される際には江戸は通らず、相模国中原なかはら(現神奈川県平塚市)から北上し、武蔵府中ふちゆう(現東京都府中市)川越かわごえ(現埼玉県川越市)、館林(現群馬県館林市)天明てんみよう(現佐野市)を経て鹿沼の薬王やくおう寺に一時安置されてから日光山座禅ざぜん院に入っており、のちのいわゆる例幣使街道と壬生通が日光への道であった。しかし元和五年宇都宮藩主となった本多正純により、宇都宮城の大改修と城下の新しい町立てが行われ、奥州街道から日光への新しい街道を分岐することにより、江戸から宇都宮経由で日光に至る道が表通りとなる。しかも、「聖地」日光への参詣通行は、幕府・諸大名にとって重要な公式行事となり、五街道の一つとされ、整備されていく。

日光廟を造営した二代将軍秀忠以降、将軍自らが日光に詣ることを「社参」とよぶ。元和三年四月の東照大権現社の落成と一周忌法会の際、秀忠は四月一二日に江戸を出たが、連日の豪雨のため、二晩岩槻城に逗留し、下総古河城で一泊、一五日に宇都宮城に泊まって日光に入っている(徳川実紀)。帰途は壬生城を経由しているが、この第一回社参以来、宇都宮を経由する道が利用されている。

日光街道
につこうかいどう

江戸の千住せんじゆから日光へ至る街道。五街道の一つで将軍の日光参拝にも用いられ、現古河市域には中田なかだ宿と古河宿があったが、両宿間の道筋は少なくも二度の変更があった。大字中田―坂間さかま鴻巣こうのすはらの道筋はふる街道とよばれ、鴻巣に小字古街道東があり、地理的にも近世に整備されたと思われる直線に近い往還であることから、これが近世初期の日光街道で、のちの中田―茶屋ちやや新田―古河と通ったより直線的な道筋の日光街道(旧国道四号)が改変後のものであり、「古河旧記」の永井尚政の項に「寛永七庚午年、中田より小山迄往来並木植ル」とあるところから、寛永七年(一六三〇)にできたことがわかる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日光街道」の意味・わかりやすい解説

日光街道
にっこうかいどう

日光道中ともいう。江戸時代の五街道の一つ。江戸から千住(せんじゅ)、草加(そうか)、古河(こが)、宇都宮を経て日光坊中まで20宿(栗橋(くりはし)・中田を二宿、徳次郎宿を三宿に数えると23宿)。宇都宮までは奥州道(おうしゅうどう)を兼ねるが、近世初期までは奥州道とよばれ、宇都宮から日光までが日光街道とよばれた。日光東照宮が完成し日光社参が頻繁になると、江戸―宇都宮間も日光街道とよばれるようになった。成立についてはさだかではないが、1602年(慶長7)に粕壁(かすかべ)、宇都宮が、1606年には草加宿が成立したと伝えられ、東照宮完成のころ街道、宿駅ともに整備されたようである。

[山本光正]

『本間清利著『日光街道繁昌記』(『しらこばと選書 一』1975・埼玉新聞社)』『埼玉県立博物館編『日光道中』(『歴史の道調査報告書3』1985・埼玉県教育委員会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日光街道」の意味・わかりやすい解説

日光街道
にっこうかいどう

江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋から千住,幸手 (さって) ,栗橋,小金井,宇都宮,徳次郎を経て日光にいたる約 150kmをいう。日本橋-宇都宮間は奥州街道と重複し,狭義には宇都宮-日光間の約 35km。幸手で日光御成街道,今市で日光例幣使街道日光西街道日光北街道会津西街道が合流する。今市付近には現在も杉並木が残り,天然記念物に指定されている。

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デジタル大辞泉プラス 「日光街道」の解説

日光街道

東京から栃木県の宇都宮を経て日光へ至る道路。江戸時代に五街道と呼ばれた主要な街道のひとつ。「日本の道百選」(建設省)に選定されている。この街道と、例幣使(れいへいし)街道、会津西街道にまたがる全長37キロメートルの杉並木は「日光杉並木街道」として国の特別天然記念物、かつ特別史跡に指定されている。

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百科事典マイペディア 「日光街道」の意味・わかりやすい解説

日光街道【にっこうかいどう】

日光道中

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事典・日本の観光資源 「日光街道」の解説

日光街道

(栃木県日光市)
日本の道100選」指定の観光名所。

日光街道

(埼玉県草加市)
日本の道100選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の日光街道の言及

【日光道中】より

…日光街道ともいう。江戸時代の五街道の一つ。…

※「日光街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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