内野村(読み)うちのむら

日本歴史地名大系 「内野村」の解説

内野村
うちのむら

[現在地名]早良区内野一―八丁目・内野・早良一―二丁目・同五―七丁目

東入部ひがしいるべ村の南、室見むろみ(早良川)の上流域にある。東は脇山わきやま村。東には仙道せんどう山、西には本城ほんじよう山の山野が広がり、東から流れてきた椎原しいば川、西から流れてきた石釜いしがま(現室見川)が当村北部で合流、この両川の間を小河川二本が北流して椎原川に入る。観応二年(一三五一)書写の安楽寺注進状には「入部庄付内野」とみえ、太宰府天満宮領入部いるべ庄に含まれていた。同年一〇月三日には一色道猷(範氏)から「内野田地弐拾町内野越中入道跡地頭職」が勲功の賞として、松浦党の佐志授に宛行われている(「一色道猷宛行状」有浦文書/南北朝遺文(九州編)三)。永徳二年(一三八二)には半済が実施され、年貢は天満宮へ納め、下地は佐志寺田勇の知行とするよう内野近江守に命じられている(同年七月一六日「今川了俊書下」同文書/南北朝遺文(九州編)五)

内野村
うちのむら

[現在地名]筑穂町内野

嘉穂盆地の南部、穂波ほなみ川の上流に位置する。北は阿恵あえ村、西は御笠みかさ香薗こうぞの(現筑紫野市)、南は夜須やす桑曲くわまがり村。小早川時代の指出前之帳では内野村の田三一町二反余(分米五一四石余)・畠一二町六反余(分大豆六八石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高五八二石余、うち大豆六六石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高六六八石余、家数一六六・寺二・社一、人数九三八(田圃志)。郡帳高は筑前国御免帳書抜(九州大学経済学部蔵)の六六八石余に同じと考えられる。

内野村
うちのむら

[現在地名]新潟市内野町・内野戸中才うちのとなかさい内野早角うちのはやつの内野潟端うちのかたばた内野関場うちのせきば内野潟向うちのかたむかい内野崎山うちのさきやま内野長潟うちのなががた内野中浜うちのなかはま新中浜しんなかはま

西にし川左岸に立地し、東・北・西は五十嵐浜いからしはま村、南は中権寺ちゆうごんじ村新田・田島たじま村・曾和そわ新田村しん川が東方で底樋により西川と立体交差し、中央を北西流する。集落は北方砂丘と南方低地の接点にあり、北国浜街道が通る。古くは崎山・細越ほそこしの二村であったと伝える。「温古之栞」によると、寛政三年(一七九一)頃、西川の渡船場が置かれている。慶安二年(一六四九)と承応三年(一六五四)に長岡藩の検地を受け、前者では高二三五石三斗余、後者では本田は同高で新田高五二三石九斗余のほか助右衛門新田高七六石余(合併町村の歴史)

内野村
うつのむら

[現在地名]猪苗代町八幡やはた

東館ひがしだて村・白津しろづ村の北、川桁かわげた山地大倉おおくら山の西麓に位置する。集落は西流する長瀬ながせ川支流千石せんごく川によって形成された扇状地上にあり、南東の上内野、北西の下内野の二区に分れていた。下内野の北方、荻窪おぎくぼ村地内を隔てた地に端村大水沢おおみずさわ新田があったが、のち水沢村として分村した。川東組に属し、宇都野・宇津野とも記した(「新編会津風土記」など)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では猪苗代郡のうちに内野とみえ、高四四八石余。享保三年(一七一八)には高四五九石余、家数六三、男一三一・女八三、馬二二、天明六年(一七八六)には高四五八石余、家数三九、男八二・女六二、馬一九(「留帳」小林家文書)

内野村
うちのむら

[現在地名]忍野村内野

杓子しやくし山とそれに連なる鹿留ししどめ(一六三二・一メートル)の南東麓に位置し、富士山から流出したたか丸尾溶岩台地上東側にある。北から北西にかけては忍草しぼくさ村で、東は石割いしわり(一四一三メートル)を境として平野ひらの(現山中湖村)、北東は二十曲にじゆうまがり峠を越えて鹿留村(現都留市)に続く。鹿留山に発した新名庄しんなしよう川が南西流する。北西の大明見おおあすみ(現富士吉田市)から鳥居地とりいじ峠を越えて東の長坂ながさか峠で平野村に通じる道と、これより分岐して山中やまなか(現山中湖村)に至る道が通る。内野から平野に至る道は、駿河および相模への道として古くから利用されたという(甲斐国志)

内野村
うちのむら

[現在地名]浜北市内野・内野台うちのだい一―四丁目

長上ながのかみ郡に所属。小松こまつ村の西、馬込まごめ川上流右岸に位置する。南端で同川支流御陣屋ごじんや川が合流する。建武三年(一三三六)九月九日の光厳上皇院宣案(徳禅寺文書)に「遠江国内野郷」とみえ、光厳上皇は花山院前中納言兼信に同郷を安堵している。花山院兼信は文和二年(一三五三)一二月二七日後光厳天皇からも同郷を安堵されている(「後光厳天皇綸旨」同文書)。応永六年(一三九九)九月一八日、室町幕府豊永とよなが御厨内の内野郷ほかを足利義満の側室寧福院に与え、同院代官に交付するよう遠江守護今川仲秋に命じている(「管領畠山基国奉書」宝鏡寺文書)

内野村
うちのむら

[現在地名]城島町内野

やま川下流右岸に位置し、南対岸は城島村・大依おおより村、北ははま村、東は草場くさば(現三潴町)。通称肥後街道が通る。中世は三潴庄の内。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)に三潴庄とう郷に属して内野村とみえ、大善だいぜん玉垂たまたれ(現久留米市)の八月朔幣料五斗・春祠使幣六斗の神事用途を負担し、九月一九日の九月会では高三潴たかみづま(現三潴町)とともに十四番の頭役を勤め、その料田として四反二丈中があった。貞和三年(一三四七)九月二三日の高良宮祭料米色々神役村々注文写(御船文書/南北朝遺文(九州編)二)では春祭分の祭料米六斗、八月朔幣料米五斗・九月会祭頭・大善寺檀供一〇枚を負担した。

内野村
うちのむら

[現在地名]川口市東内野ひがしうちの

木曾呂きぞろ村の北に位置する。大部分が台地上にあり、西側を南流する見沼代用水(東縁)を隔てて見沼田圃が展開する。田園簿に村名はみえないが、当村鎮守羽黒権現社の承応三年(一六五四)の棟札に内野村と記載されていたとされるので(風土記稿)、承応三年以前に分村したものと思われる。小名金崎かなさきや当地の富士ふじ塚は木曾呂(木揃)を冠して慣称していたことから、分村前は木曾呂村の内であったと考えられる。元禄郷帳に村名がみえ、高四六石余で幕府領。以後幕末まで同領(改革組合取調書など)

内野村
うちのむら

[現在地名]安土町内野

西老蘇にしおいそ村の南、箕作みつくり山の西麓にある。村域の大半は平地で、集落は中央に位置する。東は小脇おわき(現八日市市)など、西は野口のぐち(現同上)など。元禄郷帳はナイノの訓を付す。小字に蒲生野がものがあり、「万葉集」や六国史に散見する蒲生野のうちか。応長元年(一三一一)一二月二七日の僧行快等田地売券(八幡神社文書)に「佐々木御庄内野郷」とみえ、元徳二年(一三三〇)四月一〇日付の裏書には「うちのゝとうたうミ殿小文」とある。

内野村
うちのむら

[現在地名]小見川町内野

虫幡むしはた村・山川やまがわ村の西にある。寛永二年(一六二五)知行宛行状に村名がみえ、当村のうち九石余が旗本永井(長井)領となっており、同四年の知行宛行状では九石余が旗本市川領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一八八石余で、下野鹿沼藩領と旗本揖斐・堀・後藤・三宅・長井領の六給。享保(一七一六―三六)頃は小見川藩領と旗本三宅・後藤・市川・永井領の五給(「小見川領内諸事覚書」木内神社文書)。天保九年(一八三八)の小見川藩領郷村高辻帳(関家文書)では高二二石余。同一〇年の水野氏領十四村高帳(多田家文書)に高二二石余とあり、小見川藩領分が遠江浜松藩領。

内野村
うつのむら

[現在地名]富士宮市内野

左折さおり村の北東、しば川上流域に位置する。天正二年(一五七四)一一月晦日の武田家朱印状(木本文書)によれば、武田氏は江尻えじり(現清水市)興国寺こうこくじ(現沼津市)大宮おおみや城の普請材木採取を命じた富士北山ふじきたやまの「うつ野」の新左衛門・新右衛門・甚左衛門・源右衛門・兵衛三郎・左衛門太郎・源六・七郎右衛門・縫殿右衛門・縫殿左衛門らを含む四九人の杣夫に対し、奉公の見返りにその他の普請役一切を免除している。同一一年五月三日、徳川家康は武田家と同様に新左衛門らに普請材木伐り出し奉公の代りにその他の普請役を免除している(「徳川家康朱印状」同文書)。天正一〇年一一月の井出正次判物(北山本門寺文書)に「横手沢村芝川井口百間四方也」とみえ、地内横手沢よこてざわに芝川から取水する北山用水の井口があり、井口の一〇〇間四方と幅三間で二里余の水路用地は除地とされていた。

内野村
うつのむら

[現在地名]北茨城市磯原いそはら町内野

木皿きさら川の上流に位置し、山が連なる。東は木皿村。文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)に「九拾六石四斗八升八合 竜子山分うつの村」とみえる。「水府志料」に村の「東西一里十町余、南北二十八町許。民屋二十九戸(中略)奥州棚倉、湯岐往来ノ支路ナリ」とある。寛政元年(一七八九)の人数一一八、馬五・牛二(松岡郡鑑)、安政三年(一八五六)の家数二四・人数一〇五、馬一四(「公私書記」渡辺家蔵)であった。明治二年(一八六九)の「領地村鑑」(茨城県歴史館蔵)に「草刈場三ケ所反別弐百町歩余 七ケ村入会也」とある。

内野村
うちのむら

[現在地名]八代市二見野田崎ふたみのたざき

日奈久ひなぐ村の南に位置し、西は上大野かみおおの村・くぼ村に接する。「八代日記」永禄九年(一五六六)三月一二日条に「二見内野ニ夜討候、婦夫年少ころし候、何方ヨリ仕候哉」とあり、同年五月一六日条に「去三月十二日ニ二見内野ニ夜打之時、舟こき候者徳淵ノ今中洲ノ者也、今日しはり候て杭瀬町ニ引のほせさ(ママ)され候」と記されている。天正年間(一五七三―九二)薩摩の本郷能登守が戦死後、その母妙珍比丘尼が三年間尼僧として城を守ったと伝えられる比丘尼びくにヶ城(櫛山城)跡がある。

内野村
うちのむら

[現在地名]芦北町大川内おおかわち

湯浦ゆのうら川と内野川に挟まれた三角形の小平野にあり、近世から現在を通じて上内野かみうちの村と下内野村に分けられている。湯浦手永に属し、延宝三年(一六七五)の葦北郡湯浦手永小村限御帳(芦北町誌)によれば、上内野村は男女一〇〇、うち女四一、一五歳より六〇歳の男二四人のうちに四人の郡筒を含み、竈数一三、馬三とあり、下内野村は男女七三、うち女二八、一五歳より六〇歳までの男一六人のうちに二人の郡筒を含み、竈数一〇、馬二とある。

内野村
うちのむら

[現在地名]大宮市宮前町みやまえちよう

上内野村の南西にあり、かも川で東の上加かみか・下加両村と境する。村の大部分は洪積台地であるが、北を除く三方は同川およびその支谷で囲まれる。上内野村との境界は不明瞭。田園簿では上内野村の高に含まれている。元禄八年(一六九五)上野前橋藩酒井氏の検地があり(「風土記稿」など)、元禄郷帳に村名がみえ高一二三石余、幕府領・旗本新見領と簸川明神社領(国立史料館本元禄郷帳)。寛政八年(一七九六)の足立郡村々高辻帳(都築家文書)によれば旗本三家の相給で、幕末まで変わらず(改革組合取調書など)

内野村
うちのむら

[現在地名]大原町深堀ふかほり新田につた若山わかやま

寄瀬よせ村の北、塩田しおた川と新田川流域の平坦地に立地する。のち深堀・新田・若山の三村に分立。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に内野村とみえ、高二千八石。慶長五年(一六〇〇)の大多喜藩領分高付帳(大木家文書)では高二千七石余。寛文四年(一六六四)当時も大多喜藩領(「阿部正能領知目録」寛文朱印留)。同年の小物成は野銭永九二五文・浜役塩五石余(大曾根家文書)

内野村
うちのむら

[現在地名]十津川村大字内野

神納かんの川流域、川津かわつ村の上流に立地。十津川郷のうち。寛永郷帳に初めて村名がみえる。村高二〇・五二石、幕府領。元禄郷帳では村高二〇・二二石となっている。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆七五本、椴栂松尺〆四五本、割菜二四貫目、煙草一二〇貫目、茶一八貫目、楮七貫目とみえる。

内野村
うちのむら

[現在地名]伊万里市波多津町はたつちよう内野

南から北に流下して波多津川に注ぐ内野川流域の浸食谷。慶長絵図に「内野村 波多津ノ内」とあり、文化年中記録によれば「畝数十五町二段二畝八歩半」とある。

内野村
うちのむら

[現在地名]海津町平原ひらはら

成田なりた村の北東に位置する。元禄郷帳にも記載がなく、天保郷帳には成田村の内として高二一〇石余。「濃州徇行記」によれば同村のうち中成田村の枝村で、畑三町余とある。旧高旧領取調帳では旗本青木領となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報