成田村(読み)なりたむら

日本歴史地名大系 「成田村」の解説

成田村
なりたむら

[現在地名]成田市成田・田町たまち東町あずまちよう本町ほんちよう仲町なかまち上町かみちよう幸町さいわいちよう花崎町はなざきちよう新町しんまち馬橋まばし囲護台いごだい・囲護台一―三丁目・南平台なんぺいだい中台なかだい五丁目・加良部からべ三―五丁目など

根木名ねこな川中流左岸に位置し、江戸と結ぶ成田道(佐倉道)をはじめ、香取鹿島道(成田道・勅使街道)芝山しばやま(現芝山町)に至る道、安食あじき(現栄町)に至る道、滑川なめがわ(現下総町)に至る道などの起点であり、北総における交通の要衝になっている。近世中期以降成田山新勝寺の門前町として町場化した。寺台の永興てらだいのようこう寺が所蔵する聖観音坐像の胎内墨書追銘に、応永一五年(一四〇八)二月付で「成田郷大檀那光量」とみえる。年次未詳四月五日の僧如賢書状(金沢文庫文書)には「成田御百姓并羽鳥大御田作人」とみえ、当地は埴生はぶ庄に属し、金沢称名寺領であった。なお永禄九年(一五六六)八月二三日の北条氏政感状写(武家雲箋)にみえる「成田表合戦」は現旭市の成田とする説があるが、房総でない可能性もある。

文禄三年(一五九四)の検地帳(豊田家文書)に香取郡印東いんとう庄佐倉領内成田郷とあり、高三七五石余。

成田村
なりたむら

[現在地名]大郷町東成田ひがしなりた

大谷おおや郷の南部に位置し、全村丘陵地で中央を西南方小鶴沢おつるざわ(現大和町)境および南方宮城郡もり(現利府町)を源流とする二筋の沢川が村の中央で合流、山崎やまさき川となって北境から鶉崎うずらさき村に落ちる。両川に沿って細長い開析谷が連なる山村である。道は南から利府りふ(現利府町)・森郷そうの関(古代勿来なこそ関という)を経て板谷いたや山に入り、山崎川沿いになか村・大松沢おおまつざわ村に通ずる仙台城下道のほかは、隣村に至る山道のみである。南方に板谷の集落がある。正安元年(一二九九)九月二八日の留守家政譲状(余目文書)に、留守氏領の境界として「きたはをつるさハ山とやす松とのあいたのたつめのみねすちをひんがしへ」とあり、村の南境が休松やすみまつと小鶴沢山との間の東南の峰筋で、留守氏領と接していた。また「余目記録」に応永(一三九四―一四二八)の初めのこととして、大崎氏が村岡宮内少輔に助勢し、宮城に馳せ向かった記事中に「府中・いたやとをりヲ、大木きりふさくといへとも事ともせす、そうの関へ御出張候間、留守殿おそれたてまつり陣を引退給う」とあり、「いたやとをり」すなわち現在の板谷山囲いたややまかこいが奥郡から宮城郡へ抜ける通路の一つとなっていたことがわかる。

成田村
なりたむら

[現在地名]長井市成田

北東流する川を挟み、みや村の北、最上川左岸に位置する。近世後期に東方対岸のもり村を分村した。おもな集落は最上川左岸に沿って南北に通じる道沿いに街村を形成、船着場・問屋などもあり、「東講商人鑑」に四名が載るなど、有力商人層も育っている。文和五年(一三五六)一月一三日の中島入道長宗譲状案(飯沢文書)に「下長井しやうなり田の村」とみえ、当地の「若宮八幡宮御神田一丁三段、同ミやさいけ一宇の所」を子「れうせん房」へ譲渡している。天文七年(一五三八)の段銭古帳では「仁十〆文 なり田」とみえ、うち四貫七〇〇文は御中館分であった。同二二年一月一七日の伊達晴宗充行状(鮎貝文書)によれば、成田郷内の「若宮分」「ふうきう在家、さくま在家」「高林在家、きん六在家」「しミん堂分」「まうき分」「たき所分きり田」「関之在家」などが鮎貝兵庫頭に与えられている。同年の晴宗公采地下賜録によれば、兵庫頭に与えられた地はかつて中野常陸介の本領で、兵庫頭は守護不入を認められている。ほかに松岡紀伊守は「成田のうち、真言いんの寺領」などを除き、同一一年六月まで知行していた所領を、大塚信濃は当地の「たうの腰在家」などを与えられている。

成田村
なりたむら

[現在地名]御坂町成田

甲府盆地の東部、笛吹川支流かね川の扇状地の氾濫原に位置し、北は中川なかがわ(現石和町)、東は金川原かねがわばら村、南は井之上いのうえ村・国衙こくが村、西は鵜飼うかい(金川、現笛吹川)を挟んで四日市場よつかいちば(現石和町)。鎌倉街道が金川原村から北西行して中川村に向かう。慶長古高帳に村名がみえ高一千一一七石余、幕府領。ほかに熊野領一石余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本紅林・名取・高尾・小栗の四家がみえる。紅林氏は寛永一三年(一六三六)、名取氏は同一一年、高尾氏は同一〇年、小栗氏は同一〇年に宛行われたと考えられ(「寛政重修諸家譜」など)、貞享―元禄期(一六八四―一七〇四)の川東領分並給人付帳(渡辺一若家文書)では高尾氏は小林氏に替わっている。

成田村
なりたむら

[現在地名]鏡石町成田

笠石かさいし村の東、阿武隈川西岸の氾濫原と緩丘陵に立地。明治八年(一八七五)までは石川郡所属。当村から阿武隈川を渡って川辺かわべ(現玉川村)から磐城に抜ける道と、同川沿いに三神みかみ(現矢吹町)に出て常陸に向かう道がある。村名は戦国期石川城(現石川町)城主石川昭光の末孫成田左衛門尉が拠った成田館(成福寺跡地付近)跡地が集落となったことに由来するという(白河風土記)。建武三年(一三三六)三月三日の石川光念寄進状案(川辺八幡神社文書)に川辺八幡宮(現玉川村)の神領として「白川庄内成田郷伊具駿河入道後家跡」とみえ、北条得宗領であった当郷を光念が前年焼失した社殿の再建料として寄進。

成田村
なりたむら

[現在地名]岩瀬村梅田うめた

たき新田の東、長沼ながぬま宿(現長沼町)から今泉いまいずみ村へ通ずる道に沿う。南部は西から東へ延びる丘陵、中央をなめ川が東流する。岩瀬・七ッ石ななついしうめ高村たかむらの四集落よりなる。天正一八年(一五九〇)の検地目録(天栄村史)に岩瀬郡長沼領(蒲生郷貞領)として成田村とみえ、一〇五貫余・米五八〇石余。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高八五二石余。白河古領村郷高帳では高一千一五二石余。元禄一四年(一七〇一)長沼藩はそれまでの三口米から六口二延(一俵に対し六升の口米と二升の延米を付加)とするなど付加税を重くしたため、翌年当村百姓源十・戸右衛門は領内各村に回状を回し、長沼陣屋襲撃を企図、北横田きたよこた弘法壇こうぼうだんに集合したが失敗、両名は処刑された(同一五年「百姓一揆一件留」福島県史)

成田村
なりたむら

[現在地名]北上市飯豊町いいとよちよう 成田、花巻市成田

飯豊村の東、北上川右岸の河岸段丘上に位置し、北は奥州街道で稗貫ひえぬき西十二丁目にしじゆうにちようめ(現花巻市)に通じる。郡境は中世には和賀氏と稗貫氏の領境であったため両氏の間で境論があった。溝を境にして和談し、これを対面たいめん堰と名付けたという(邦内郷村志)。和賀氏の本城二子ふたご城の北に位置する防衛上の要地であった。岩渡堂いわたどう(岩田堂氏居館)・成田館(成田氏居館)(赤坂権頭居館)などが連なっていた(「北上市史」など)。天正一八年(一五九〇)の和賀氏没落の際には南部方との激戦があったと伝える。

慶長八年(一六〇三)頃、上成田・下成田を含む稗貫・和賀両郡の二〇ヵ所・八千石が北松斎信愛に宛行われており(年未詳「南部利直知行宛行状」宝翰類聚)、同一五年の同人宛南部利直黒印状(盛岡北文書)に上成田村の一二八石余、下成田村の一九六石余が載る。

成田村
なるだむら

[現在地名]小田原市成田

西境を酒匂さかわ川、北東を鬼柳おにやなぎ堰が流れ、東は延清のぶきよ村・矢作やはぎ村、南は飯泉いいずみ村、北は桑原くわはら村に接する。南北に小田原道、東北に富士道が走る。「兵範記」保元二年(一一五七)三月二九日条にみえる相模国成田庄の一部(→成田庄。小田原衆所領役帳に藤田大蔵丞「百弐貫九百八拾七文 西郡成田」とある。「北条記」には明応四年(一四九五)に北条早雲が小田原城の大森氏を攻撃した際、大森勢のなかに「西郡の住人成田」の名がみえる。

近世は小田原藩領。天正二〇年(一五九二)一一月二〇日の西光院松原大明神社領書上(相州古文書)に「参貫五百文 此米五石四升 成田郷ニ有之」とある。明暦元年(一六五五)一一月二六日幕府鷹匠小頭が鷹匠衆十数人を連れて滞在した(永代日記)

成田村
なりたむら

[現在地名]旭市ロ

太田おおた村の東、網戸あじと村の西に位置し、村の南部を東西に多古銚子たこちようし道が通る。永禄九年(一五六六)八月二三日の北条氏政感状写(武家雲箋)にみえる成田表合戦は当地で戦われたとする説があるが、武蔵国または東海道諸国の可能性が高い。天正一八年(一五九〇)木曾義昌領、慶長六年(一六〇一)青山忠成領であった可能性があり、同一八年の両氏の旧領書上(外口家文書・岩井家文書)には成田村一六九石余などとある。慶安二年(一六四九)に地内の真福しんぷく寺が朱印地一〇石を安堵されている(「公儀書上覚」真福寺文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二三四石余で、真福寺観音堂領のほか幕府領。なお「なる田」と記している。この幕府領二二四石余はのち旗本鵜殿領となるが、元禄以前にも同氏領であったか。

成田村
なりたむら

[現在地名]富谷町西成田にしなりた

東は石積いしづもり村・今泉いまいずみ村、北は大童おおわら村、西は穀田こくだ村、南は明石あかいし村。明石川が集落の東部を北流し、途中で石積から流れる苅又かりまた川と合流して成田川となって西にし川に落ちる。ほとんどが丘陵地で北部にわずかな耕地をもつ山間の村。明石川上流から長柴ながしば渡戸わたど郷田ごうだ荒井あらいの集落がつづく。藩政時代、大谷おおや郷成田(現大郷町)と区別して小野目おのめ成田とよばれた。地名の呼称は俗称「ナンダ」といい、当地方では稲の成熟のよい水田という意味で、志戸田しとだ・今泉などと並んで米所であった(富谷町誌)

成田村
なりたむら

[現在地名]福島市成川なりかわ

荒川によって形成された扇状地の扇端に位置する平坦地。南は大森おおもり村、西は赤川あかがわ村。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫大仏しのぶだいぶつ方のうちとして「なり田」とみえ、段銭は七貫五七五文。近世前期は成田村として推移したが、幕末までに上・中・下三村に分れ、領主支配は錯綜した。ただし分村後も成田村一村として把握される場合も多い。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四五九石余。近世初期の邑鑑によると免一ツ四分、家数一五(役家七・肝煎一・脇家七)、人数四八、役木として桑少しがある。米沢藩領時代の古高一千一九二石余、幕府検地による新高九三九石余(古高新高帳)。成田村の領主は清水町しみずまち村と同じ変遷をたどり、寛保二年(一七四二)幕府直轄領となった。

成田村
なりたむら

[現在地名]桑折町成田

平沢ひらさわ村の西に位置し、北西から南東方向に細長い。南東部の西根にしね台地上は下成田、一段高い古館ふるだて西館にしだての丘陵地の西は上成田と通称される。奥州道中が通り、同街道沿いには元宿もとじゆく下宿しもじゆく新宿しんじゆくの地名が残り、明治一七年(一八八四)の地籍図(桑折町蔵)によると道の両側に直交した屋敷割がみられ、古代から中世における東山道の宿駅跡とも推定される。近世の桑折宿はこの成田宿を移したものという伝えも残る(信達二郡村誌)

成田村
なりたむら

[現在地名]郡山市安積町あさかまち成田なりた

荒井あらい笹川ささがわ両村の西、笹原ささはら川下流両岸の沖積原に立地。主集落は同川北岸にある。永享一一年(一四三九)頃のものと推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)に南郷のうちとして「成田 四丁」とみえる。天文一八年(一五四九)三月五日、田村隆顕は成田村のうち六〇貫文の地を橋本三十郎に本領安堵している(「田村隆顕充行状」橋本文書)。天正元年(一五七三)一二月に安積へ進出した田村清顕は「成田・河田之外」を破り、村中残らず放火し(天正二年正月晦日「田村清顕書状」伊達家文書)、当地一帯は田村氏領となった(「伊達輝宗日記」二月一六日条)

成田村
なりたむら

[現在地名]相馬市成田

宇多うだ川の旧流とみられるうめ川の南岸平坦地に位置し、東の馬場野ばばの村に入る所を大江おおえ堀とよぶ。同村との境を浜街道が南北に走り、北の中野なかの村から村内を縦断する奥州西街道は南の坪田つぼた村に至る。天文七年(一五三八)の段銭古帳に宇多庄のうちとして「なり田」「上なり田」「下成田」とみえ、段銭はそれぞれ一一貫一二五文・七貫二〇〇文・二五貫八五〇文であった。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項などによると、成田大炊頭が住み、采地二六五貫五六五文を有している。

成田村
なりたむら

[現在地名]河北町成田

相野谷あいのや村の東、一関いちのせき街道に沿い、北方の合戦谷かつせんがいには灌漑用水のための合戦谷沼がある。さかいにある元和四年(一六一八)の野谷地開墾記念碑に、「慶長十八年ニナリタやイイノやアイノやノやチ 右三ケ所ヲミタテ キリヲコサセし人ハ嶋備前守」とみえる。正保郷帳では田一貫五六六文・畑五八二文で水損・旱損と注され、ほかに新田七六貫二四文。「封内風土記」では戸数一九、歩卒六〇、人数三五九、馬五四。文政一一年(一八二八)の高一三四貫九四四文、ほかに大番頭支配足軽の持高は三四貫七六〇文で、人頭一七人、人数八七、足軽六八であった(「桃生南北本吉南方風土記」及川徳松家文書)

成田村
なりたむら

[現在地名]大洗町成田町

沼の東に位置し、北は神山かみやま村。天授六年(一三八〇)下野国小山の祇園おやまのぎおん城で小山義政が挙兵し、関東管領足利氏満によって攻められたが、このとき府中城(現石岡市)の大掾清幹の家臣河和田かわわだ(現水戸市)鍛冶弾正貞国が動員した米川氏に与えた宛行状(「大貫夏海年代考」所収)に「於小山諫のはたらきを 仍為神妙 弐拾五貫文之所 成田郷之内宛行候条 可所務候 謹言 五月二十三日 貞国(花押) よね川左内どの」とある。これは同年の文書と思われる。

成田村
なりたむら

[現在地名]南河内町成田

川右岸の低地に位置し、南西は薬師寺やくしじ村。慶安郷帳に村名がみえる。近世初めは幕府領。宇都宮氏旧臣姓名書に村名と薗部惣右衛門ほか六人の名がみえ、慶長六年(一六〇一)には宇都宮藩領。慶安郷帳では田高二八四石余・畑高八一石余。元禄郷帳では旗本依田領、改革組合村では旗本石谷領とみえ、幕末に至る。貞享三年(一六八六)には浮役でないことを理由に、惣百姓が夫役の金納赦免願(伊沢新右衛門文書)を代官に提出している。石橋いしばし宿の助郷を勤め、元禄九年(一六九六)の助郷高四一六石(「石橋宿助郷帳」伊沢吉則文書)。用水はやな(現上三川町)地内の田川から取水していたが、文化二年(一八〇五)に当村が簗村地内字柳町やなぎまち・六反田の草堰・石堰を破り、昼夜番人を付けたことから争論が生じている(「用水堰出入訴状」同文書)

成田村
なりたむら

[現在地名]海津町平原ひらはら

福島ふくしま村の北にあり、北東は内野うちの村。中世は郡戸こおるど庄内の一郷として推移、文応元年(一二六〇)八月二七日の摂津(中原)親員譲状(池田文書)に「こうとのうちなるたのかう」、文永六年(一二六九)一二月一九日の関東下知状(同文書)に「郡戸庄内成田郷預所・地頭両職事」などとみえる。慶長郷帳に村名がみえ、石河光忠(石河氏はのち尾張藩家老)領八六六石余、幕府領一九一石余、旗本青木可直領九九一石余。

成田村
なりたむら

[現在地名]柴田町成田

小成田こなりた村の西・北にあり、北は葉坂はざか村、西は小泉こいずみ(現村田町)など。天文七年(一五三八)の段銭古帳には「むら田殿へ参候田代」のうちに「仁十貫文 なり田」とみえ、村田むらた(現村田町)城主村田近重の所領があった。天文の乱終結後の同二二年、伊達晴宗は村田紀伊守(近重)らに対し成田など六ヵ郷の段銭免除を安堵、加恩としてこの六ヵ郷の棟役銭を免除している(同年一月一七日「伊達晴宗判物」村田文書)。また同年集成の晴宗公采地下賜録によれば、柴田庄「成田の内、さかの下在家」などが小泉平三に与えられている。正保郷帳では旱損と注され、田三七貫四九二文・畑六貫三七四文、ほかに新田八貫九四三文。

成田村
なりたむら

[現在地名]矢板市成田

さわ村の南に位置する。低湿地のため飲水は湧水を、灌漑用水は用水溜を掘り利用する。近世は那須郡に属した。慶安郷帳では高五三〇石余、田方三九一石余・畑方三八石余、幕府領。元禄一〇年(一六九七)旗本榊原・小林・下島・大久保・福島・朝比奈に分給され、元禄郷帳では幕府領との七給、高五八四石余。天明八年(一七八八)福島領が没収、寛政二年(一七九〇)朝比奈氏が改易され幕府領となり、五給で幕末に至る。しかし文政一〇年(一八二七)の組合村入用割合帳(川上豊文書)によると名主は七人が記され、幕府領となったのちも旧来の七組状態が続いている。各々の高は榊原・小林・下島領が八一石、大久保領八九石、幕府領は八一石・八一石・八九石の三分割になっている。

成田村
なりたむら

[現在地名]築館町 成田・成田上川原かみかわはら・同久保田くぼた・同さいかち・同松木まつきなど

築館村の北西、一迫いちはさま川左岸に立地し、村域は耕地が広がる。東は留場とめば村。康永元年(一三四二)一〇月一七日の岡本重親代山田重教着到状(秋田藩家蔵文書)によれば、三迫合戦に際し、成田城でも同月九日より一七日まで南朝方と北朝方の奥州総大将石塔義房軍との間で、昼夜合戦が行われている。

成田村
なりたむら

[現在地名]下館市成田

小貝こかい川右岸、真壁まかべ街道に沿い、北は金丸かなまる村。戦国期から江戸初期にかけて水谷氏・松平氏の支配地となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高四四五・六七二石とある。享保一八年(一七三三)の成田村差出帳(谷島家文書)には「家数五拾七軒、内五拾四軒百姓・壱軒坊跡・壱軒寺・壱軒神主、人別弐百五拾七人、内男百三拾八人・女百拾九人、馬数拾弐匹、但し牛は御座無く候」とあり、さらに農間渡世として大工九、金具屋二、木挽・鍛冶屋・研屋・さや師各一があげられる。また畑の夏作に木綿・大豆・大根を栽培している。

成田村
なりたむら

[現在地名]小牛田町成田

江合えあい川北方の水田中にある自然堤防上に位置。東と南は中埣なかぞね村、西は上埣かみぞね(現古川市)、北は長岡針ながおかはり(現同上)。村内の大半が伊達安芸の知行地。正保郷帳に村名がみえ、田一二貫五八二文・畑一貫九六一文、ほかに新田一貫八三六文。「安永風土記」では田一四貫九七一文・畑二貫七八文。

成田村
なりたむら

[現在地名]古川市清水しみず 成田

江合えあい川南岸の水田地帯にあり、玉造たまつくり郡に属する。西と北は下野目しものめ(現玉造郡岩出山町)、南は名生みよう村、東は三丁目さんぢようのめ村に接する。日光山につこうざん古墳群につながる古墳があり、早くから開けていた。正保郷帳に田一九貫六九二文・畑五貫九〇三文とあり、ほかに同所新田一一貫九一五文がある。「安永風土記」によれば、田三二貫四九一文・畑八貫四六二文で、蔵地は三九貫七七〇文、給所は一貫一八三文、人頭二一人、家数二六、男女都合一四三、馬二二とあり、蔵場一ヵ所があり、その中に囲蔵三・買蔵一・吹屋一があり、御林二銘があった。

成田村
なりたむら

[現在地名]北浦村成田

武田たけだ川左岸の台地上にあり、東は帆津倉ほづくら村。正中二年(一三二五)三月日の最勝光院領目録(宮内庁書陵部所蔵文書)に「常陸国成田庄」、応安年間(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)に「なるたの津たけた知行分」とあり、武田氏の支配下にあった。天正一九年(一五九一)同氏滅亡後、佐竹・仁賀保・皆川各氏領を経て、元禄一三年(一七〇〇)守山(松川)藩松平氏領となる(徳川加封録、寛政重修諸家譜)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報