中河内村(読み)なかのかわちむら

日本歴史地名大系 「中河内村」の解説

中河内村
なかのかわちむら

[現在地名]余呉町中河内なかかわち

椿坂つばきざか村の北、北国街道に沿う街村で宿が置かれた。とち峠に源を発する高時たかとき川は同街道の東を南流、当地で東流に転じ大音波おとなみ谷・雌鳥めんどり谷の支流を合せ丹生にゆう谷へ流れる。曲流地点東方に枝郷半明はんみよう集落がある。栃ノ木峠は越前国今庄いまじよう(現福井県南条郡今庄町)城主の赤壁家系図(今庄村誌)の長享―延徳年間(一四八七―九二)条にみえる杓子しやくし峠に相当すると考えられ、同国板取いたどり(虎杖宿、現同上)に通じ虎杖越とも称した。天正六年(一五七八)柴田勝家が越前と安土を結ぶ軍道として改修整備したと伝える。

中河内村
なかごうちむら

[現在地名]河内町中河内

上河内村の東に位置し、村の中央を東西に貫流する沼田ぬた(戸野川)西部入野にゆうの川、東部椋梨むくなし川と合流沼田川沿いに形成された河岸段丘を中心に平地が広がり、農耕地に使用されている。もと上河内・下河内とともに河内こうち村と称したものであろう(→上河内村。文禄四年(一五九五)九月二一日の平賀元相同市松連署起請文案(平賀家文書)では郡戸こうど・上河内と下河内に区分され、中河内は下河内と一村であったと考えられる(→下河内村

中河内村
なかごうちむら

[現在地名]清水市中河内

清地きよじ村の北西、興津おきつ川支流中河内川の流域に位置する。北は駿甲国境峠越えで甲斐国巨摩こま福士ふくし(現山梨県富沢町)に通じた。東が小河内村との山界、西は河内村との山界で、この間にあることが村名の由来という(駿河志料)。江戸時代の領主の変遷小島おじま村に同じ。元禄郷帳では高二四五石余。助郷は東海道興津宿、由比ゆい宿(現由比町)へ出役(興津宿助郷帳など)。村内で生産される炭は小島藩御用炭として収納された。元文元年(一七三六)には一千八六一俵が江戸へ送られ、時価は一〇〇俵一両、金一八両二分余が年貢から差引かれた。

中河内村
なかかわちむら

[現在地名]鹿島市大字三河内みかわち中川内なかかわち

中川の上流、はや川の流域にある。正保絵図に村名がみえる。

貞享四年(一六八七)改・元文三年(一七三八)写の御領中郷村帳(佐賀県立図書館蔵)、享和元年(一八〇一)写の御領中郡村附、万延元年(一八六〇)改の郷村帳には村名はみあたらないが、三川内村の中に平原ひらばる村が含まれており、現中川内の中に平原がある。

「鹿島志」は「木庭村は鹿島を去る二里ばかり、其の村東西に長く南北は狭し。

中河内村
なかがちむら

[現在地名]水戸市中河内町

水戸城下の北に位置し、那珂川の左岸にある。北は上河内村と西木倉にしきのくら(現那珂郡那珂町)。「常陸国風土記」の那賀なか郡に「郡より東北のかた、粟河を挟みて駅家を置く。本、粟河をらして、河内の駅家と謂ひき。今も本の随に名づく」とみえ、古代律令制下当村付近に駅家が置かれたと推定される。「和名抄」の那賀郡の項には河内かつち郷がみえる(→上河内村。天正年間(一五七三―九二)宍戸安芸守の居所といわれる中河内館があった(水戸市史)。古代より奥州路の要地として開けた当村には那珂川を渡す船渡しがあり、対岸の圷渡あくつわたり村と通じ、「大和田重清日記」にも「中カツチの舟越ニ、十五文ヤル」と記される。

中河内村
なかこうちむら

[現在地名]海老名市中河内なかごうち

東南は本郷ほんごう村、西は社家しやけ村、北は上河内村と接している。中世は恩馬おんま郷に属し、本郷村から分村した。近世は、初め幕府直轄領と旗本太田領の相給。幕府直轄領は寛文八年(一六六八)上野前橋藩領、天和二年(一六八二)幕府直轄領となるが、元禄一〇年(一六九七)旗本馬場領となり幕末に至った。

中河内村
なかごうちむら

[現在地名]英田町中河内

下山しもやま村の西に位置し、北西は城田じようでん村。正保郷帳に村名がみえ、田五五石・畑三二石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高・開高合せて一八石余、村位は中。

中河内村
なかこうちむら

[現在地名]福井市中河内町

木米きよね村より南に谷を上った所にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「山本之郷」の内と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報