下河内村(読み)しもごうちむら

日本歴史地名大系 「下河内村」の解説

下河内村
しもごうちむら

[現在地名]五日市町下河内

上河内村の南にある。飛郷大杉おおすぎは西へ遠く離れた山間にあって白砂しらさご(現湯来町)の飛郷後畑うしろばた(現廿日市町)に接し、北の飛郷白川しらこう(白河)上河内河内こうち川上流域にあって葛原つづらばら(現湯来町)に接する。西方は山地で、南流する河内川沿いに開けた平地に集落が展開。水内みのち川筋(現湯来町)へ至る往還路が通る。中世、当地を含む一帯は河内と総称された。

「国郡志下調書出帳」によれば、下河内村は慶長六年(一六〇一)の検地により畝数二八町七反余、高三二六・二七二石に高付された。広島藩領で明知・給知入交じり。田は稲作を中心とし、畠は麦作が行われ、四歩方が農業、六歩方が山稼・駄賃持・浮儲で、農閑には男子は刈商売・叺作り、女子は木綿織延べに従事した。

下河内村
しもかわうちむら

[現在地名]鳥海村下川内しもかわうち

子吉こよし川上流の左岸一帯を占める。北を流れるうぐいす川は坪淵つぼぶちで子吉川に合する。大久保おおくぼ・坪淵・虎杖平さすびら興屋こうや鶴岡つるおか鶴田つるた大栗沢おおくりさわ小栗沢こぐりさわの小集落が分散し、下河内村は総称。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)下川村とあり、当村をさすと思われる。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)に、「下川内 (ママ)屋村」として七七石四斗九升六合とあり、そのうち畑は五石三斗四升四合で「漆ノ木 雑木有 新田有」とある。

下河内村
しもがわちむら

[現在地名]豊前市下河内

河内かわち村の東、山内やまうち村の南西に位置し、岩岳いわたけ川中流域の平地と求菩提くぼて山から延びる舌状台地の裾に立地する。八屋はちや村・宇島うのしま町、広津ひろつ(現吉富町)の三方面から求菩提山に至る道が当村ぐちで合流し、集落は求菩提山道沿いに形成され、高札場が設置されていた。天和年間(一六八一―八四)当村から西隣の大河内おおかわち村にかけての北部丘陵が開拓され天和てんわ村として分割されたという(築上郡史)。江戸時代は小倉藩領。元和八年人畜改帳に村名がみえ御蔵納分、家数一〇一・人数二二三(うち百姓一七・名子五三)、牛二六・馬一〇。

下河内村
しもごうちむら

[現在地名]落合町下河内

法界寺ほうかいじ村の北にあり、西は赤野あかの村、東は上河内村。西流する河内こうち川の流域にあたり、同川沿いに備中松山まつやま城下(現高梁市)に通じる道が通る。上河内村とともに古代大庭おおば河内こうち(和名抄)、中世河内庄の遺称地。正保郷帳では田高三九五石・畑高二七三石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によると村位は中、改出高一八四石余・開高五四石余。「作陽誌」では家数七三・人数五四六。天保(一八三〇―四四)頃の美作国郷中高帳では上分(高四二九石余)・下分(高五一九石余)の二筆で記される。津山藩森家断絶後の領主の変遷は下見しもみ村に同じ。

下河内村
しもごうちむら

[現在地名]河内町下河内

椋梨むくなし川を境に中河内村の東に位置し、村の南部を沼田ぬた川が東流するが、傾斜の急な山地が川に迫っているので流域に平坦地が発達していない。沼田川北岸の大和原やまとばら神社の境内に古墳があり、須恵器が出土。

もと上河内・中河内とともに河内こうち村と称したと思われる(→上河内村。文禄四年(一五九五)九月二一日の平賀元相同市松連署起請文案(平賀家文書)によると、下河内は高二五九石五斗一升二合、家数六三であった。また、同年一〇月二四日の平賀氏知行付立案(同文書)に、下河内の田三二町八反二四〇歩(分米二四九石八斗二升)・畠六町四反一四〇歩(分銭九貫六九二文)とみえるが、これらのなかには中河内村も含まれていたと考えられる。

下河内村
しもごうちむら

[現在地名]豊田市大内おおうち

ともえ川の支流たき川が二股に分れる分岐点にあり、標高一〇〇―一二〇メートルの谷底平地には挙母面がみられる。下河内から大田だいた歌石うたいしにかけての村境に松平光親の城山じようやま城跡がある。字一反田いつたんだの墓地には五輪塔四基があり、うち一基は一石五輪塔である。

近世初めは幕府領。慶長八年(一六〇三)に旗本中根正次知行となり、明治に至る。中根家は、三河国と下野国で二七〇石を有し、三河では下河内村一村のみを支配していた。慶長九年の奉行辰巳藤右衛門による検地帳(下河内区有)が残る。

下河内村
しもかわちむら

[現在地名]河南町下河内

弘川ひろかわ村の西から南にあり、山間の渓谷に沿う。北西部は白木しらき村・なか村との錯綜地。もとは南の上河内村とともに西隣の馬谷まだに村と一村であったともいう。西部にある下河内(西山)城跡は上河内城とともに元弘の乱で幕府軍が設けたといわれ、正平一五年(一三六〇)には楠木正儀和田正武の出城となり、上河内城とともに八木弾正・菱木越後守入道が守ったという(大阪府全志)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高三九四石余、幕府領、小物成として山年貢米二石余。

下河内村
しもがわちむら

[現在地名]本渡市ほん町下河内

新休しんきゆう村の東にあり、南に枝郷掛道かけみち村がある。正保郷帳に村名がみえ、高一〇四石四斗余。掛道村の高三一石六斗余。御領組に属し、庄屋は佐藤家。万治二年(一六五九)石高半減のときの高一九五石九斗余(天草風土考)。「国志草稿」に竈数二三・男女数二二七とある。

下河内村
しもがわちむら

[現在地名]津久見市上青江かみあおえ 下河内

奥河内おくがわち村の東、青江川上流域に位置し、東は勇土おんつち村。江戸時代は佐伯藩領。正保郷帳に村名がみえ、田方一六石余・畑方九石余、水損所・日損所、津久見郷に属した。元禄一三年(一七〇〇)の国東速見大分海部郡郷帳違目録(臼杵藩政史料)には「津久見村之内下河内村」とあり、当無高。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報