三河内村(読み)みつがいちむら

日本歴史地名大系 「三河内村」の解説

三河内村
みつがいちむら

[現在地名]比和町三河内

恵蘇えそ郡の北東端にあたり、東は奴可ぬか大屋おおや(現西城町)、南は恵蘇郡川北かわぎた(現庄原市)、西は木屋原こやばら村・比和村と接する。勝光しようこう(九四七メートル)北麓の小盆地小和田こわだと、その北東にあたる元常もとつね川源流域で井西いざい(一一八七メートル)毛無けなし(一二五二・七メートル)南西麓の谷あいの福田ふくだ、さらに北方吾妻あづま山南麓谷あいの越原谷おつぱらだにの三地域をもって三河内村という。小和田と福田大仙峠だいせんだおとよぶ小峠で隔てられる程度であるが、越原谷は完全な飛郷で、小和田の中心部からは八キロ北方にある。元和五年(一六一九)の備後国知行帳では三河内村として高一四一二・三七九石とあるが、「芸藩通志」では小和田組・福田組・越原谷に分れて記される。

中世にはじび庄の北東部に位置し、東は奴可東ぬかひがし庄と境を接した。小和田から奴可郡大屋村への峠に坊地峠ぼうじだわの名があり、荘園の境界を示す示に由来すると思われる。

三河内村
みごちむら

[現在地名]野田川町字三河内

加悦谷かやだにのほぼ中央に位置し、村内を通る加悦街道沿いに集落が発達した。村内東部野田川の作る沖積地は肥沃田地となっている。

慶長検地郷村帳に高九七〇・三七石「三河内村」とあり、延宝九年(一六八一)の延高で一三〇一・一二二石(天和元年宮津領村高帳)となった。宮津藩領。

享和三年(一八〇三)の御領分縮緬屋御鑑札御改帳(「丹後加悦町誌」所引)に「機数 百二十機、外に十四上機、同紬三機」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報