八代城下(読み)やつしろじようか

日本歴史地名大系 「八代城下」の解説

八代城下
やつしろじようか

日本三大急流の一つに数えられる球磨川は、河口に大三角洲を形成し、肥沃な土地を造成した。この河口に築かれた八代城は、石灰岩をもって築かれたところから一名白鷺しらさぎ城ともよばれた。

〔形成・移転〕

八代城の起源は、この地の東約四キロにある古麓ふるふもと城である。建武元年(一三三四)元弘の功臣伯耆国の名和義高(長年の長男)は後醍醐天皇から八代庄地頭職を与えられ、その一族内河義真を地頭代として八代郡に下向させた。義真は古麓に館を構え、次いで城下町を経営した。杭瀬くいぜ町が形成されたのもこの頃と思われる。次いで球磨川河口徳淵とくぶちに港を開いて交易の場とした。これが古麓城または八代城とよばれた始まりである。貞和三年(一三四七)九月、少弐頼尚は相良定頼太田おおた郷杭瀬村など七ヵ所を兵粮料所として与え、その子長続の代に名和氏高田こうだ郷三五〇町を割譲した。その跡を継いだ為続は八代郡を手中におさめ、その子長毎の二代にわたり八代郡・益城ましき郡の豊福とよふく郷を領するに至り、八代城は拡張され、城下町は整備された。この間のことは「八代日記」に詳しい。同日記は文明一六年(一四八四)に始まる。まず「為続様八代知行、三月七日日、治世十六年」の記事から始まり、永正元年(一五〇四)二月五日条に「長毎、八代知行、伯州(名和)顕忠如国中退散」とある。「求麻外史」の天文三年(一五三四)一月一六日に「新築城於八代鷹峯」とあり、その後同城は「八代城」または「陳内」とよばれた。天正九年(一五八一)一二月一日に相良義陽は下益城郡ひびきはら(現豊野村)で戦死し、相良氏は本拠の球磨郡人吉ひとよしに帰り、八代は薩摩の島津氏の支配するところとなった。同一五年豊臣秀吉の九州統一によって、肥後国主には佐々成政を任命したが、成政は翌年に失政の罪を問われて自刃させられた。次いでこの地を領したのはキリシタン大名の小西行長で、「事蹟通考」に「十六年小西領トナリ、長臣小西美作行重ヲ城代トシ、後行重ヲシテ、古麓ノ西一里許リ、麦島村ニ平城ヲ築シメ、古麓城ヲ解毀テ、皆新城ニ遷ル」とあり、球磨川河口の麦島むぎしまに新城を築いた。麦島は徳淵の南の三角洲で、本丸・二ノ丸・三ノ丸を配置し、その周辺に侍屋敷・町屋を配したと考えられる。小西氏は慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原戦に滅び、遺領は加藤清正に与えられた。清正は吉村橘左衛門・堤権右衛門を八代城代に命じ、のちに野尻久左衛門・蟹江与三兵衛が交替し、同一七年加藤右馬允正方を八代城代に任じた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報