山田地区(読み)やまだちく

日本歴史地名大系 「山田地区」の解説

山田地区
やまだちく

外宮の鎮座地は山田原と称されるが、その鳥居前に成立した町場を中心とする地域。町場としての繁栄はかなり古くにさかのぼると考えられ、「太神宮参詣記」は山田を「みやこ」と記している。また山田は「ようだ」とよばれていたらしく、陽田・楊田と記されることもあり、「室町殿伊勢参宮記」には「やう田の宿坊」とみえる。大路が通じ宿坊が立並ぶこの山田も、文明一八年(一四八六)一二月、内宮側の宇治との争いから国司北畠氏が兵を出し、「山田三方悉放火」(延徳以来内宮注進状)され、外宮正殿も炎上した。「蔭涼軒日録」文明一九年正月四日条は「(山)田宿不一宇焦土、自去月廿日廿二日三日焼了云々」と記している。同年二月に細川政元が参詣したが「外宮焼失之間、山田宿無其所、各仮屋一宿」(長興宿禰記)という状態であった。

三日市(岩淵町)五日市(下馬所前野町)六日市(岡本町)・八日市(八日市場町)など、中世から市が成立し、多くの座も形成されて、商業都市としての発達の著しかった山田は、山田三方とよばれる自治組織によって支配されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報