ちゅう‐そう【中宗】
※
革命勘文(901)「遠履
二太祖神武之遺蹤
一、近襲
二中宗天智之基業
一」
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デジタル大辞泉
「中宗」の意味・読み・例文・類語
ちゅう‐そう【中宗】
王朝の中興の祖。
中国、唐の第4代皇帝。在位683~684、705~710。姓は李。名は顕。高宗の没後即位したが、2か月で母の則天武后に廃され、のち復位したが皇后の韋氏に実権を奪われ、暗殺された。
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中宗
ちゅうそう
Zhong-zong; Chung-tsung
[生]顕慶1(656)
[没]景竜4(710)
中国,唐の第4代皇帝 (在位 683~684,705~710) 。高宗と則天武后の間の子。永隆1 (680) 年,実権を握った則天武后により太子とされ,高宗没後即位したが,在位2ヵ月で武后のために廃位され,房州 (湖北省房県) に流された。しかし武后政治の失敗で,神功1 (697) 年再び太子となり,8年後復位したが,韋后一派 (→韋氏 ) が実権を握っていたので名目的な皇帝にすぎず,韋氏と娘の安楽公主に毒殺された (→武韋の禍 ) 。
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中宗
ちゅうそう
(656―710)
中国、唐第4代皇帝(在位683~684、705~710)。姓名は李顕(りけん)。高宗の第7子、母は則天武后(そくてんぶこう)。680年章懐太子李賢が武后に廃されると皇太子となり、高宗の死後即位したが2か月で則天武后に廃され、房州(湖北省)に流された。698年に洛陽(らくよう)に召還されてふたたび太子となり、則天武后の退位とともに帝位に返り咲いた。しかし治政に意を用いず、実権は夫人の韋后(いこう)にあり、帝位に野心をもつ韋后、安楽公主母娘に毒殺された。
[金子修一]
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中宗(ちゅうそう)
Zhongzong
656~710(在位683~684,705~710)
唐の第4代皇帝。姓名は李顕(りけん)。高宗と則天武后の子。高宗死後即位したが,すぐ廃されて湖北に流された。武后の末年復位したが,実権を皇后の韋后(いこう)に奪われ,暗殺された。
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中宗
ちゅうそう
656〜710
唐の第4代皇帝(在位683〜684,705〜710)
父高宗の没後即位したが,生母則天武后 (そくてんぶこう) に廃され流された。武后の晩年に復位したが,皇后の韋氏一派に毒殺された。
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普及版 字通
「中宗」の読み・字形・画数・意味
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