目次 中国 ヨーロッパ 王の中の王,諸王に超越する王の称号としての皇帝は,王権の及ぶ範囲が共同体や部族・氏族連合を越える広大な帝国の成立と結びついている。したがって,皇帝の称号の成立は,そこに含まれる国際関係を帝国の秩序に組み入れる観念の形成とも不可分といえる。日本の天皇号は,南北朝期の分裂した中国を統一した隋王朝の国際秩序の内部で,朝鮮半島の三国との国際的関係からみずからを〈大国〉として位置づけることによって成立したとされている。 →王 →天皇
中国 秦の始皇帝より始まる。秦王政(すなわち始皇帝)は前221年に中国全土を武力で統一し,史上初めて中国内で唯一の王となると,それにふさわしい王号を烝相以下に命じて論議させた。丞相王綰(おうわん)らは古代に天皇,地皇,泰皇があり,泰皇が最高であるから泰皇とすべしと奏上したが,政はみずから皇帝の号を採用して王の尊号と定めた。また皇帝の自称を朕,命を制,令を詔というなど皇帝の専用語を定め,また従来の諡法(しほう)を廃止してみずからを始皇帝とし,以後二世,三世と数えて万世にいたらんと定めた。これは,皇帝の死後に諡 (おくりな)をおくるならば,子孫や臣下が先帝の生前の行為をあげつらうことになり,皇帝は死後といえども批判を禁ずべき絶対の存在であると考えたためである。秦王朝が項羽や劉邦などによって滅ぼされると,中国は項羽以下の多くの新しい王によって分割統治された。前202年劉邦らが楚漢の争いに勝って項羽が自殺すると,諸王は一致して漢王劉邦に皇帝の尊号をたてまつり,劉邦は皇帝の位について漢王朝が始まった。ここで皇帝は王の中の王が持つ尊号となり,諸王の上位に位するものとなった。後漢末,魏王曹丕(そうひ)は漢の献帝から皇帝の位の譲りをうけて魏王朝を始め,いわゆる禅譲の例をひらいた。始皇帝が定めた皇帝という尊号には,その功と徳が古代の三皇五帝 よりも大であるという意味がふくまれていた。帝は上帝ともいって在天の最高神,皇は祖先神や上帝の美称として用いられていたが,先秦の文献には,黄帝,帝尭,帝舜,帝嚳(こく)など,伝説上の帝王に帝という称号を用いる例があり,また戦国時代の半ば,前288年に,秦の昭襄王と斉の湣王が互いに約束して西帝,東帝と称したことがあり,王を超えるものとして帝の号が意識されていたことが認められる。なお,天子という称号は,宇宙を主宰する至上神である天の命をうけて,民の父母としてこれを治め,祖先である天を祭るものという儒学的な君主観念からの称号で,皇帝というのが正式の称号である。 →王 執筆者:大庭 脩
ヨーロッパ 明らかに王国の規模を超えた古代オリエント〈帝国〉の支配者の名称には,たとえば,古代ペルシア語の,xšāyaoiya xšāyaoiyānam(諸王のなかの王。たとえば,ギリシア語のbasileus ,basileōn,ペルシア語のshāhānshāhに相当)のようなものがあるが,中世以来ヨーロッパで問題となる,王に優越するものとしての皇帝という名称はローマ帝国 に由来する。その場合,ロマンス語およびケルト諸語ではインペラトル imperator ,ゲルマン語およびバルト・スラブ語ではカエサルcaesar という,いずれもラテン語の名称が用いられている(ギリシア語については,以下の(3)参照)。
(1)imperatorは,〈命令する〉を意味するラテン語imperareに由来し,最初は主として軍隊に対し最高の指揮権をもつ者を指し,アウグストゥス によって,その称号の一部として(imperator caesar)用いられるようになった。ここから,たとえば,現代フランス語のempereur,ウェールズ語のymerawdwrが由来する。imperatorは中世では,ビザンティン帝国 で皇帝を指すbasileus(後述)と等置された。カール大帝 が800年のクリスマスにローマで帯びたimperator称号については,今日なお歴史家のあいだで解釈が定まらないものの,その結果,imperatorカール大帝と,basileus称号を帯びるビザンティン皇帝 との間には,皇帝称号をめぐって,いわゆる中世における二皇帝問題が発生した(後述)。
(2)caesarは本来ラテン語の家名でありながら,アウグストゥス 以来皇帝を意味する称号となった。ここから,ゲルマン語では,たとえば現代ドイツ語のカイザーKaiser が,スラブ語でも,たとえば現代ロシア語のツァーリ tsar'が生まれた。tsar'称号もまた,imperator称号と同じく中世でビザンティン帝国のbasileus称号と等置されたが,そのtsar'称号を,920年代にはブルガリア人シメオン1世が(先行ブルガリア人支配者の称号khan=汗にかわって),1346年の戴冠式にはセルビア人ステファン・ドゥシャン が(kralj称号にかえて),1547年の戴冠式にはロシア人イワン4世が(先行支配者たちが最初に帯びていたknyaz'(公)称号,のちに帯びるようになったvelikii knyaz'(大公)称号の代りに),それぞれとなえたのは,いずれも,ビザンティン帝国の標榜する世界皇帝理念に対するみずからの態度表明としてであった。なお近代では,ピョートル大帝が,tsar'称号を廃して,代りに西方のimperatorを公式称号に採用したけれども,tsar'称号は依然として民間で存続した。
(3)王を意味した古典ギリシア語バシレウスbasileusはビザンティン帝国ではローマ皇帝を指すようになり,かかるものとしてビザンティン皇帝がみずから帯びた。これは,〈ビザンティン帝国〉という名称は近代になって与えられた呼称にすぎず,〈ビザンティン帝国〉と呼ばれるものは,古代ローマ帝国 の中世における連続体であり,みずからを〈ローマ帝国〉と考えていたことからの当然の帰結であった。そのうえ,世界(オイクメネー)をおおうローマ帝国という理念は,4世紀初め,ローマ帝国がキリスト教化されるなかで,キリスト教終末神学に裏打ちされて,キリスト再現まで,人類をまとめあげておくべき,地上における唯一の帝国という理念にまで高められたのである。これが,ビザンティン帝国の政治的基本理念であり,したがって,ローマ皇帝称号はみずからの独占物であって,他国の支配者がみだりに僭称すべからざるもの,とされたのである。この観点からビザンティン帝国は,国家文書における外国元首の称号について,きわめて厳格な使い分けをするとともに,このローマ皇帝理念の補強物として,たとえば,ビザンティン皇帝を家父長とし,中世諸国家の君主をその息子,兄弟,友人などとする擬制的親族秩序をつくりあげた。中世における皇帝称号の問題は,ここに起因した。
ビザンティン皇帝は,800年以来皇帝imperatorを称するカール大帝に対し,一連の交渉の末,812,813年その称号を認めた。だがそれは,世界で唯一つしかありえぬ〈ローマ人たちの皇帝basileus tōv Rōmaiōn=imperator Romanorum〉としてのビザンティン皇帝の下に立つ一介の〈皇帝imperator〉としてであり,しかも,キリスト教世界西半部を統一したカール大帝個人に一代限り認めたものとして,後継のカロリング朝フランク諸国王には,この単なる皇帝称号すら許さなかった。このような皇帝称号をめぐる理念的・政治的対立の問題は,〈皇帝Imperator〉を称したオットー1世以降の神聖ローマ帝国 においてもひきつづき存続することとなる。
ブルガリア人支配者シメオンが〈ブルガリア人ならびにローマ人の皇帝〉という称号を帯びたのは,彼の924年のコンスタンティノープル大攻勢前後であり,それは,ビザンティン皇帝の世界支配にみずからがとって代わろうという決意の宣言を意味した。これに対して,〈セルビア人ならびにローマ人の皇帝〉をとなえたセルビア人支配者ドゥシャンの場合には,むしろ,旧ビザンティン帝国領の大部分をその版図に治めた彼の,いまや世界帝国の支配者になったという,高揚した自己意識が読みとれる。そして,イワン4世の場合は,いうまでもなく,滅亡したビザンティン帝国の衣鉢を継承した,〈第三のローマ,モスクワ 〉の理念(ローマ理念 )の宣明である。
中世では,皇帝称号の問題は,中世人独特の思考世界のなかで単なる名称の問題にとどまらない現実的意味をもっていた。近代では,ナポレオン 1世は1804年に皇帝を称し,ローマ教皇 を迎えて戴冠式を行い,ナポレオン3世もクーデタ後に皇帝を称した。ドイツ帝国(1871-1918)でも,プロイセン王が皇帝Kaiserの称号を用い,連邦諸国を代表し主権を行使した。また,イギリスのビクトリア女王 は,本国では王を称しながらも,インドでは〈皇帝〉の称号を用いた。 執筆者:渡辺 金一