精選版 日本国語大辞典 「高宗」の意味・読み・例文・類語
こう‐そう カウ‥【高宗】
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朝鮮,李朝第26代の王。在位1863-1907年。名は載晃(初名は命福)。諱(いみな)は(き)。大院君の第2子。12歳で即位すると同時に大院君が摂政となり,1873年より親政を始めたが,王妃である閔妃(びんひ)の一族が台頭して政権を掌握した。76年の開港以来,日本,清国などの圧力が強まり,これへの対応をめぐって閔氏,大院君,開化派のあいだに抗争が起きて,壬午軍乱や甲申政変などの諸事件が相次いだ。日清戦争後の95年,日本により閔妃を殺され,一時ロシア公使館に避難したが,97年には王宮に戻って国号を大韓帝国と改め,皇帝と号した。しかし日露戦後,朝鮮は実質的に日本の植民地となり,1907年,ハーグの平和会議に使者を送ってその不当性を訴えようとしたが,日本によって退位を強制された(ハーグ密使事件)。日韓併合ののちは徳寿宮李太王と称され,日本の皇族の待遇をうけた。死去に際して日本人による毒殺の風説がひろまり,葬儀の日をきっかけにして三・一独立運動が勃発した。
執筆者:吉野 誠
中国,南宋初代皇帝。在位1127-62年。北宋第8代皇帝徽宗(きそう)の第9子。姓名は趙構。康王に封ぜられ,1126年(靖康1),兵馬大元帥として金軍の南下を防ぐために河北に行き,徽宗・欽宗が捕らえられて宗室が断絶した(靖康の変)ので南京応天府(河南省)で即位。その後,金軍に攻められて転々とし,1129年(建炎3),臨安府(浙江省杭州)を行在と定めた。主和論者の秦檜(しんかい)を重用,韓世忠・張俊・岳飛ら軍閥諸将をおさえて,金との間に屈辱的な和を結び,臣と称し,銀絹の歳貢を贈ったが,とにかく20年の平和を結び,その間江南の開発は進み,文化は北宋の盛時をしのぐほどになった。彼はすぐれた文化人で,ことに書画には非常に高い鑑賞眼と非凡な技術を兼ね備えていた。散逸した古美術品の回収につとめた結果,徽宗時代の収蔵を上まわるほどになったという。書技・画技においても徽宗にまさっていたと評せられる。書は,黄庭堅・米芾(べいふつ),ついで王羲之・王献之をはじめ晋・唐の書にせまったという。
執筆者:外山 軍治
中国,唐の第3代皇帝。在位649-683年。諱(いみな)は治。太宗の第9子で,母は長孫無忌の妹の文徳皇后。多くの兄たちをさしおいて皇太子となり,ついに皇帝の位につきえたのは,ひとえに長孫無忌の意向による。即位直後は,長孫無忌,褚遂良(ちよすいりよう)らの補佐のもと,太宗の貞観の治をうけついで,内政外交ともに問題はなかった。しかし,高句麗討伐を再開した655年(永徽6),王皇后を廃して,もともと太宗の後宮にいた武氏を皇后に冊立して以後,宮廷や官界の人物地図は急激に塗りかえられ,武后の取りまきが宮中を固めた。660年(顕慶5)以後,高宗は風眩と呼ばれる持病が悪化し,武后に政務を決裁させたため,武后の権力が高宗をしのいでしまい,674年(上元1)には,高宗を天皇,武后を天后といい,人々は二聖と称した。つまり,35年にわたる高宗の在位期間のうち,660年以後の24年間は,事実上の則天武后執政時期だったのである。諡(おくりな)は天皇大帝,乾陵に葬られた。
→則天武后
執筆者:礪波 護
朝鮮,高麗第23代の王。在位1213-59年。姓名は王㬚。康宗の子。彼の治世は,内政面では,崔氏の武人政権期であり,また,蒙古の台頭に起因する,契丹人,蒙古軍などの外寇が相次いだ時期であった。とくに,1231年に始まった蒙古の侵略は激しく,32年以後高麗支配層は江華島への遷都を余儀なくされた。58年,王は崔氏に反感をもつ文武官僚と結んで,これを倒し,翌年太子王倎を蒙古に派遣して,講和を図ったが,その留守中江華島内で没した。諡(おくりな)は安孝大王。洪陵に葬られた。一方,王倎は開平府でフビライに謁して高麗の地位保全と王位継承を認められ,帰国後即位し元宗となる。
執筆者:北村 秀人
→乾隆帝
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