高宗(読み)こうそう

精選版 日本国語大辞典 「高宗」の意味・読み・例文・類語

こう‐そう カウ‥【高宗】

[一] 中国、唐朝の第三代皇帝(在位六四九‐六八三)。李治廟号。百済(くだら)・高句麗(こうくり)を滅ぼし、半島の日本勢力を駆逐国力の充実につとめたが、晩年皇后則天武后によって実権を奪われた。(六二八‐六八三
[二] 中国、南宋の初代皇帝(在位一一二七‐六二)。趙構の廟号。徽宗・欽宗が金軍に捕えられたため、即位。のち、臨安を都と定め、金と和議を結ぶ。経済開発を推進し、南宋の基礎を築いた。(一一〇七‐八七
[三] 中国、清朝の第六代皇帝。乾隆帝(けんりゅうてい)

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デジタル大辞泉 「高宗」の意味・読み・例文・類語

こう‐そう〔カウ‐〕【高宗】

[628~683]中国、の第3代皇帝。在位649~683。いみなは治。太宗の第9子。高句麗こうくりの平定、西域への進出など、唐の版図を広げたが、晩年は則天武后に実権を握られた。
[1107~1187]中国、南宋の初代皇帝。在位1127~1162。あざなは徳基。いみなは構。徽宗きそうの第9子。の侵入軍と戦ったが、徽宗と兄欽宗が捕らえられると、逃れて南京で即位。のち臨安に移り、金と屈辱的な和平を結んだ。
中国、の第6代皇帝。→乾隆帝けんりゅうてい

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改訂新版 世界大百科事典 「高宗」の意味・わかりやすい解説

高宗 (こうそう)
Ko-jong
生没年:1852-1919

朝鮮,李朝第26代の王。在位1863-1907年。名は載晃(初名は命福)。諱(いみな)は(き)。大院君の第2子。12歳で即位すると同時に大院君が摂政となり,1873年より親政を始めたが,王妃である閔妃(びんひ)の一族が台頭して政権を掌握した。76年の開港以来,日本,清国などの圧力が強まり,これへの対応をめぐって閔氏,大院君,開化派のあいだに抗争が起きて,壬午軍乱甲申政変などの諸事件が相次いだ。日清戦争後の95年,日本により閔妃を殺され,一時ロシア公使館に避難したが,97年には王宮に戻って国号を大韓帝国と改め,皇帝と号した。しかし日露戦後,朝鮮は実質的に日本の植民地となり,1907年,ハーグの平和会議に使者を送ってその不当性を訴えようとしたが,日本によって退位を強制された(ハーグ密使事件)。日韓併合ののちは徳寿宮李太王と称され,日本の皇族の待遇をうけた。死去に際して日本人による毒殺風説がひろまり,葬儀の日をきっかけにして三・一独立運動が勃発した。
執筆者:

高宗 (こうそう)
Gāo zōng
生没年:1107-87

中国,南宋初代皇帝。在位1127-62年。北宋第8代皇帝徽宗(きそう)の第9子。姓名は趙構。康王に封ぜられ,1126年(靖康1),兵馬大元帥として金軍の南下を防ぐために河北に行き,徽宗・欽宗が捕らえられて宗室が断絶した(靖康の変)ので南京応天府(河南省)で即位。その後,金軍に攻められて転々とし,1129年(建炎3),臨安府(浙江省杭州)を行在と定めた。主和論者の秦檜しんかい)を重用,韓世忠・張俊・岳飛ら軍閥諸将をおさえて,金との間に屈辱的な和を結び,臣と称し,銀絹の歳貢を贈ったが,とにかく20年の平和を結び,その間江南の開発は進み,文化は北宋の盛時をしのぐほどになった。彼はすぐれた文化人で,ことに書画には非常に高い鑑賞眼と非凡な技術を兼ね備えていた。散逸した古美術品の回収につとめた結果,徽宗時代の収蔵を上まわるほどになったという。書技・画技においても徽宗にまさっていたと評せられる。書は,黄庭堅・米芾(べいふつ),ついで王羲之・王献之をはじめ晋・唐の書にせまったという。
執筆者:

高宗 (こうそう)
Gāo zōng
生没年:628-683

中国,の第3代皇帝。在位649-683年。諱(いみな)は治。太宗の第9子で,母は長孫無忌の妹の文徳皇后。多くの兄たちをさしおいて皇太子となり,ついに皇帝の位につきえたのは,ひとえに長孫無忌の意向による。即位直後は,長孫無忌,褚遂良(ちよすいりよう)らの補佐のもと,太宗の貞観の治をうけついで,内政外交ともに問題はなかった。しかし,高句麗討伐を再開した655年(永徽6),王皇后を廃して,もともと太宗の後宮にいた武氏を皇后に冊立して以後,宮廷や官界の人物地図は急激に塗りかえられ,武后の取りまきが宮中を固めた。660年(顕慶5)以後,高宗は風眩と呼ばれる持病が悪化し,武后に政務を決裁させたため,武后の権力が高宗をしのいでしまい,674年(上元1)には,高宗を天皇,武后を天后といい,人々は二聖と称した。つまり,35年にわたる高宗の在位期間のうち,660年以後の24年間は,事実上の則天武后執政時期だったのである。諡(おくりな)は天皇大帝,乾陵に葬られた。
則天武后
執筆者:

高宗 (こうそう)
Ko-jong
生没年:1192-1259

朝鮮,高麗第23代の王。在位1213-59年。姓名は王㬚。康宗の子。彼の治世は,内政面では,崔氏の武人政権期であり,また,蒙古の台頭に起因する,契丹人,蒙古軍などの外寇が相次いだ時期であった。とくに,1231年に始まった蒙古の侵略は激しく,32年以後高麗支配層は江華島への遷都を余儀なくされた。58年,王は崔氏に反感をもつ文武官僚と結んで,これを倒し,翌年太子王倎を蒙古に派遣して,講和を図ったが,その留守中江華島内で没した。諡(おくりな)は安孝大王。洪陵に葬られた。一方,王倎は開平府でフビライに謁して高麗の地位保全と王位継承を認められ,帰国後即位し元宗となる。
執筆者:

高宗 (こうそう)
Gāo zōng

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百科事典マイペディア 「高宗」の意味・わかりやすい解説

高宗【こうそう】

朝鮮の李朝第26代の王(在位1863年―1907年)。名は煕(き)。12歳で父大院君を摂政として即位。1873年親政を始めたが,実権は妃の閔妃(びんぴ)とその一族が握った。日清戦争後は清国への従属を脱し,1897年大韓帝国と号して皇帝を称したが,日露戦争後は日本の保護国となる。1907年ハーグ密使事件のため日本から退位を強制され,子に譲位。1910年日韓併合後は徳寿宮李太王と称された。死去に際し日本による毒殺説も流布し,葬儀の日に三・一独立運動が起こった。
→関連項目閔妃暗殺事件李完用李朝(朝鮮)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高宗」の解説

高宗 コジョン

1852-1919 朝鮮王朝の第26代国王。在位1863-1907。
哲宗3年9月8日生まれ。興宣大院君李是応(イ-ハウン)の次男。12歳で即位,父が摂政(せっしょう)となるが,1873年から親政。1897年国号を大韓帝国とあらため初代皇帝となる。1907年日本の韓国保護国化政策に反対し,ハーグ平和会議に密使を送った事件で退位。日本の韓国併合後,徳寿宮李太王の称をうけた。1919年1月21日死去。68歳。日本人による毒殺説がひろまり,三・一独立運動の契機となった。姓は李。諱(いみな)は煕(き)。

高宗 こうそう

コジョン

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