流鏑馬(読み)ヤブサメ

デジタル大辞泉 「流鏑馬」の意味・読み・例文・類語

やぶさ‐め【流馬】

騎射の一。綾藺笠あやいがさをかぶり、弓懸ゆがけ弓籠手ゆごて行縢むかばきを着けた狩り装束の射手が馬を走らせながら鏑矢かぶらやで木製方形の三つの的を射るもの。平安後期から鎌倉時代にかけて盛んに行われ、笠懸犬追物いぬおうものとともに騎射三物きしゃみつものの一。現在、鎌倉鶴岡八幡宮などの神事として残る。

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精選版 日本国語大辞典 「流鏑馬」の意味・読み・例文・類語

やぶさ‐め【流鏑馬】

〘名〙 騎射の一種。馬上で直線の馬場を馳せながら鏑矢(かぶらや)で的を射るもの。的は菱形の板を竹の串にはさんで馬場に並行した三か所に立て、一人で順次に三的を射る。行縢(むかばき)綾藺笠(あやいがさ)を着け、重籐(しげどう)の弓を持つ。五月五日の節日の行事として行なわれることが多い。《季・夏》
中右記‐永長元年(1096)四月二九日「上皇於鳥羽殿馬場殿、御覧流鏑馬

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「流鏑馬」の意味・わかりやすい解説

流鏑馬
やぶさめ

馬を走らせながら、雁股(かりまた)をつけた鏑矢(かぶらや)で三つの的を順次射る射技。その名は「矢馳せ馬(やばせめ)」の転訛(てんか)という。1096年(永長1)4月には白河(しらかわ)上皇臨席のもとに鳥羽(とば)殿の馬場で、同年5月には高陽院で催されており、当時京洛(けいらく)の武者たちの間に普及していたことがうかがわれる。ついで鎌倉時代に入ると、将軍源頼朝(よりとも)の奨励と法式の統一化もあって、鎌倉の地でも盛んになった。一方、早くから祭礼、神事とも結び付き、城南寺祭や新日吉(ひえ)社の五月会(さつきえ)、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)放生会(ほうじょうえ)などでも12世紀中には恒例化して奉納されている。また、たとえば肥前国河上宮(かわかみぐう)でも、1162年(応保2)には5、8月の神事流鏑馬が中絶している記録もあり(『平安遺文』)、地方でも神事との結び付きは意外に早かったことがうかがわれる。そしてしだいにこの神事の流鏑馬が本流となっていった。

 おもに室町時代の故実書によると、長さ約218メートル(2町)の馬場に、的串(まとぐし)にさした約54.5センチメートル四方の檜(ひのき)板の的を、馬の出発点から約36.4メートル(20間)、72.7メートル(40間)、同じく72.7メートルの間隔で3本立てる。当初は的を役人が持っていたが、のちには馬の走る「さぐり」から数メートル離して地面に差し立てた。鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬で、射手より地位が低いと思った熊谷直実(くまがいなおざね)が、この的立の役を拒否した話は有名である(『吾妻鏡(あづまかがみ)』)。

 射手装束は、普通、水干(すいかん)に射籠手(いごて)、手袋、行縢(むかばき)、物射沓(ものいぐつ)を着し、烏帽子(えぼし)の上に綾藺笠(あやいがさ)をかぶり、太刀(たち)、腰刀を帯して箙(えびら)を負う。員数は数騎から十数騎まで一定していない。流鏑馬は鎌倉時代を最盛期に以後武士の間では衰退するが、江戸時代に至って、8代将軍徳川吉宗(よしむね)が古記録などをもとに再興して小笠原(おがさわら)家に伝え、その法式は新儀流鏑馬とよばれ、今日も新宿区無形文化財に指定されて継承している。また、毎年9月16日に古式にのっとって奉納される鶴岡八幡宮の流鏑馬も著名である。このほか各地には本来の姿とはかなり変化した形で伝わっているものも少なくない。

[宮崎隆旨]


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百科事典マイペディア 「流鏑馬」の意味・わかりやすい解説

流鏑馬【やぶさめ】

疾走する馬上から鏑矢(かぶらや)を射流して的を射る競技。直線の馬場で,距離は120間(約220m)。的は1尺4寸(約50cm)四方の檜(ひのき)板を竹に挟んで地面に挿したもの。両側に埒(らち)(柵)を設け,その埒に沿って馬を走らせる。服装は当時の武士の平常服である水干直垂に〈綾藺笠(あやいがさ)〉をつけた狩装束。 鏑矢が飛んでいくときに発する高音に魔除(よ)け・破魔の効能があると信じられ,その起源は神事(辟邪(へきじゃ)の弓)に求められる。犬追物(いぬおうもの),笠懸(かさがけ)とともに騎射三物(きしゃみつもの)と呼ばれた。中世武士の武芸鍛練の代表的なものであったが,記録の上ではもっぱら神事の奉納武技とされている。《吾妻鏡(あずまかがみ)》には,寿永3年(1184年)正月17日に東国太平を祈願した上総(かずさ)一宮の流鏑馬を筆頭に,多くの記事が登場する。そのほとんどは鎌倉鶴岡八幡宮の祭礼に奉納した流鏑馬である。3月3日,4月3日,5月5日の臨時祭礼や8月15日の放生会(ほうじょうえ)には射芸に秀でた選り抜きの御家人が射手を務めた。
→関連項目弓道端午馬術

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改訂新版 世界大百科事典 「流鏑馬」の意味・わかりやすい解説

流鏑馬 (やぶさめ)

騎射の一種で,馬場に並行して方板の的を数間おきに3個並べ,射手が馬場を馳せながらこれを射る。犬追物(いぬおうもの),笠懸(かさがけ)とともに騎射三物(きしやみつもの)と呼ばれ,中世武士の武芸鍛錬の代表的なものであった。矢は鏑矢(かぶらや)を用いた。射手は後世16~17騎ともいわれたが,必ずしも一定しない。その装束は一般に行縢(むかばき)に綾藺笠(あやいがさ)を着け,重籐(藤)(しげどう)の弓を持つ。流鏑馬の語は矢馳馬(やはせうま)あるいは矢伏射馬の転化したものといわれている。その起源はつまびらかではないが,《吾妻鏡》に諏方盛澄が藤原秀郷の秘伝としてこれを伝えた記事(文治3年8月9日条)が見えており,平安中期にさかのぼる。確実な史料では《中右記》永長元年(1096)4月29日条に白河上皇が鳥羽殿の馬場でこれを参観したとあるのが古い。その後,鎌倉時代に広く行われた流鏑馬も室町期以降衰退し,神事などの儀式としてその名を残すのみとなった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「流鏑馬」の意味・わかりやすい解説

流鏑馬
やぶさめ

ウマで走りながら鏑矢を射流して板的に射当てる競技。古くは『日本書紀』の天武9 (680) 年の条に長柄社における馬的射がみられ,平安時代に入ると宮廷行事として行われ,『新猿楽記』 (1057) に流鏑馬の名がみられる。武家時代には兵法の修練に取入れられ,特に鎌倉幕府の奨励により盛んとなった。戦国時代以降衰えたが,江戸時代の享保年間 (1716~36) に8代将軍吉宗の命により諸儀式とともに復興した。諸式に関しては小笠原,武田,三浦の3流派がある。競技は直線で2町 (約 218m) の馬場で行う。馬場にはさくりといわれる走路に低い柵を設け,それに沿って1尺8寸 (54.5cm) の角柾目ヒノキの的を設ける。射手は,5騎,7騎,10騎,12騎,16騎などがあり,綾藺 (あやい) 笠,水干 (あるいは直垂) ,太刀,箙 (えびら) ,沓 (くつ) を着けた狩装束で行う。矢は4枚羽,三目雁又の鏑矢を用いる。現在は,鶴岡八幡宮,宮崎神社などで儀式として行われている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「流鏑馬」の解説

流鏑馬
やぶさめ

笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)とともに武家の騎射(うまゆみ)の三物(みつもの)の一つ。疏(さぐり)とよぶ馬場は2町,両側に埒(らち)と呼ぶ柵を設け,走路から3尺5寸の位置に方形の板的を3カ所に立て,馬上から鏑矢(かぶらや)で順次射る弓技で,矢継早(やつぎばや)の技を競った。公家の武官の騎射の伝統を継承したもので,1096年(永長元)の城南寺離宮での挙行が初見。鎌倉幕府の行事として,鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ)などで盛んに興行された。のち衰退したが,徳川吉宗により再興された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「流鏑馬」の解説

流鏑馬
やぶさめ

武家社会で行われた騎射の一種で,馬術と弓術とを組み合わせた競技
起源は明らかではないが,古くは『中右記』の記事にみえる。馬を走らせながら馬上から数枚の的を鏑矢 (かぶらや) で射る。鎌倉時代には特に盛ん。初め武芸を修練する競技であったが,やがて神社の神事となり,鎌倉の鶴岡八幡宮などでしばしば行われた。室町時代ころから衰えたが,江戸時代,8代将軍徳川吉宗のとき再興された。

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デジタル大辞泉プラス 「流鏑馬」の解説

流鏑馬

京都市上京区に本社を置く和菓子店、老松が製造・販売する和菓子。流鏑馬の射手の綾傘をモチーフとする平鍋物の焼菓子。北野風土菓のひとつ。

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