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江戸末期の越後長岡藩士で,戊辰戦争のとき新政府軍に頑強に抵抗した。名は秋義,号は蒼竜窟,継之助は通称。藩の上士の家に生まれて20代で江戸に遊学し,斎藤拙堂や古賀謹堂に儒学を学んだ。またペリー来航後の30代には,西日本に足をのばして備中松山の山田方谷に師事し,さらに長崎にも遊んで見聞を広めた。判断力,行動力ともに独特の強烈さをもつ人格が形成される。1864年(元治1)の郡奉行から68年の家老に至る藩の要職を歴任したが,彼の特異性が最もよく発揮されたのは,戊辰戦争に際しての中立主義である。継之助は上京中だった藩主を連れ帰ると同時に外商から最新式の銃砲を大量に購入し,藩兵1000余を藩境に配置した。新政府,旧幕のどちらにも荷担しない局外中立を宣言する。むろん新政府軍はこれを認めず攻めこみ,長岡城占領,奪還,再占領の激戦となった。中立主義のために城下町が壊滅するという珍しい戦争だった。継之助もこの戦闘で傷を負って死ぬ。日記《塵壺》がある。
執筆者:松浦 玲
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(井上勲)
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1827.1.1~68.8.16
幕末・維新期の越後国長岡藩士。父は代右衛門秋紀。名は秋義。江戸に出て佐久間象山(しょうざん)・古賀謹堂に学び,長崎に遊学して開国論者となる。郡奉行・町奉行から執政に進み,その間藩を説いて長州再征参加を中止させ,また財政改革に努めた。1867年(慶応3)藩主牧野忠訓(ただくに)に従って京に入り,大政奉還に反対。戊辰戦争開始後に長岡に帰り,藩を中立の立場にたたせた。北陸征討軍が迫ると,5月小千谷(おぢや)に東山道軍軍監岩村高俊を訪ね中立の趣旨を弁明するがいれられず,官軍に抗戦を決意。陥落した長岡城を奇襲により奪還するが,このおりの傷がもとで,会津へ赴く途中会津藩領大沼郡塩沢村で没。旅日記「塵壺(ちりつぼ)」。
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…新政府軍は,動向に疑惑をもたれた長岡藩めざして進撃し,5月に柏崎に本営を,小千谷と関原に会議所を,高田に民政局を設立した。河井継之助に指導された長岡藩は,奥羽越列藩同盟へ走って頑強に抗戦し,長岡城の争奪戦を繰り広げた。戉辰戦争中,もっとも激しい焦土戦は,8月11日,村上藩の落城で終息した。…
※「河井継之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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