大政奉還
たいせいほうかん
「大政」とは天下の政(まつりごと)の意で、第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)が1867年(慶応3)10月14日、徳川氏265年間の政権を朝廷に奉還し、翌15日、朝廷がそれを勅許した幕末期の一大政治事件をいう。
薩長(さっちょう)を中心とした倒幕運動が進むなかで、土佐藩は、公議政体論の立場から幕府に政権を返上させ、幕府に政局の主導権をとらせようとした。すなわち、土佐藩参政後藤象二郎(しょうじろう)は、幕府の若年寄格永井尚志(なおゆき)(「なおむね」とも読む)と連絡をとり、前藩主山内豊信(とよしげ)(容堂)の名で、10月3日、大政奉還建白書を老中板倉勝静(かつきよ)を通して将軍に提出した。これは坂本龍馬(りょうま)の「船中八策」の発想に基づくものであった。ついで6日、芸州(広島)藩も建白書を提出した。これを受けた徳川慶喜は、幕府の有司に意見をきき、ついで在京の諸藩の重臣(諸侯)を13日、二条城に集めて意見を求め、翌14日、大政奉還の上表文を武家伝奏日野資宗(すけむね)・同飛鳥井雅典(あすかいまさのり)に出した。
こうした慶喜の行動の背景には厳しい内外の政治情勢があったが、大政をいったん朝廷に返しても、いずれ政局収拾の主導権は慶喜の手中に収まり、公議政体論に基づく慶喜中心の「大君(たいくん)」制国家を創出しうるとみていたのである。
この日、薩長討幕派は「討幕の密勅」を得たが、大政奉還が翌15日勅許されたから、討幕派は足もとをすくわれ、ために、12月9日、討幕派による王政復古クーデターが敢行された。
[田中 彰]
『石尾芳久著『大政奉還と討幕の密勅』(1979・三一書房)』▽『萩原延寿著『大政奉還 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄6』(1999・朝日新聞社)』
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大政奉還
たいせいほうかん
慶応3 (1867) 年江戸幕府が朝廷に統治権を返上したこと。同3年3月薩長両藩が倒幕のための同盟を結んだのに対し,土佐藩は幕府をも加えた雄藩連合の新政権樹立を企て,同年 10月3日将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告,6日には安芸藩からも同じ勧告がなされた。慶喜は熟慮の末,10月 12日二条城で老中以下に大政奉還の決意を伝え,翌 13日諸藩にこの旨を通達,14日朝廷に上表文を差出し,翌 15日朝廷はこれを許可した。ただし慶喜は必ずしも政権の全面的放棄を考えていたのではなく,新政体のもとであらためて実権を掌握する構想を秘めていた。
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大政奉還
たいせいほうかん
1867年,江戸幕府15代将軍徳川慶喜 (よしのぶ) の朝廷への政権返上
薩長連合(1866)以後討幕運動が進展する過程で,これを回避するため,前土佐藩主山内豊信は藩士後藤象二郎を通じて大政奉還と公議政体論を幕府に建白した。慶喜はこれを受けいれ,薩長両藩への討幕の密勅降下と同じ10月14日政権返上を朝廷に上奏,翌日許された。これは雄藩連合政権下での徳川氏の存続や土佐藩の発言権増大をねらったものであったが,武力討幕の方針を堅持する薩長派による王政復古・戊辰 (ぼしん) 戦争でさえぎられた。
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たいせい‐ほうかん ‥ホウクヮン【大政奉還】
〘名〙 政権を朝廷に返上すること。歴史的には慶応三年(一八六七)一〇月一四日、江戸幕府一五代将軍徳川慶喜が政権の返上を朝廷に申し入れ、翌日受け入れられたことをさす。これによって鎌倉幕府以来約七〇〇年続いた武家政治が終了した。
※近世紀聞(1875‐81)〈染崎延房〉八「因て速かに所決せられ大政奉還(タイセイホウクヮン)ありたき旨を最(いと)殷懃に勧むるにぞ」
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デジタル大辞泉
「大政奉還」の意味・読み・例文・類語
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大政奉還
朝廷から幕府に与えられていた国の政治を行う権利を、朝廷に返すことです。江戸幕府の15代将軍徳川慶喜[とくがわよしのぶ]は1867年(慶応3年)朝廷に大政奉還[たいせいほうかん]を申し出て翌日許可され、ここに江戸幕府は終わりました。
大政奉還
1867年、徳川15代将軍の徳川慶喜[とくがわよしのぶ]が将軍職をやめ、政治をつかさどる権利を朝廷[ちょうてい]に返したことを言います。これによって、鎌倉時代から続いた武士の時代は終わりになります。
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たいせいほうかん【大政奉還】
1867年(慶応3)10月14日,江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が朝廷(天皇)へ政権返上を申し出,翌15日,朝廷が許可した幕末期の政治事件。〈大政〉とは天下の政治の意。慶応期(1865‐68)に入って倒幕運動が進展する過程で,土佐藩は公議政体論の立場から,幕府に政権の朝廷返上をすすめる政策をとった。その中心人物が後藤象二郎で,彼は前藩主山内容堂(豊信(とよしげ))を動かしてこの運動をすすめた。この後藤の大政奉還論の背後には,いわゆる〈船中八策〉(坂本竜馬が後藤と上京の途次立案し,1867年6月15日綱領化された)にみられる政治綱領があった。
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世界大百科事典内の大政奉還の言及
【王政復古】より
…〈尊王倒幕論〉は,〈攘夷〉すなわち外国勢力を打破するためには,幕府を倒して本来の統治者である天皇が政治を行う国家をつくるべきだとするもので,当初は〈勤王の志士〉と称する民間の武士の間で主張されたが,長州や薩摩のような大藩が朝廷と結んで幕府に対抗するに及んで巨大な政治力となった。第2次長州征伐に失敗した幕府は1867年(慶応3),将軍徳川慶喜の手によって朝廷への政権返還を行ったが(大政奉還),慶喜の意図は準備の整わぬ朝廷方に形式的に政権を返上して徳川家の権力を実質的に保持しようとすることにあった。しかし,これを察知した長州・薩摩の朝廷方(大久保利通,西郷隆盛,木戸孝允)や岩倉具視らは,土佐の公議政体論をおさえ,徳川家の無力化を図って,1867年12月9日には自らの手で〈王政復古の大号令〉を発した。…
【尊王論】より
…そうして,この観念は単に尊攘派ないし尊王討幕派に限らず,幕府関係者の間にまで浸透する。明治維新の過程で将軍によって〈大政奉還〉がなされるのはこのためである。また,討幕派の間には〈天皇親政〉が日本本来の政治制度であるという観念が高まり,この意味で〈王政復古〉が主張される。…
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