日本大百科全書(ニッポニカ) 「藩政改革」の意味・わかりやすい解説
藩政改革
はんせいかいかく
幕藩体制のもとで、個別領有制の側面をもつ藩が実施した政治的改革をいう。
幕藩領主の財政は、基本的には、自然経済に立脚する本百姓(ほんびゃくしょう)経営から徴収される貢租=生産物地代を、その基盤にしていた。幕藩領主にとってみれば、自営農民、すなわち本百姓の数が権力を左右するのに、もっとも重大な意味を有するのであった。したがって、本百姓経営の創出・維持が幕藩権力のもっとも基本的な政策であった。江戸時代には、各藩で相次いで周期的に藩政の改革が繰り返されるが、この改革の基本方針は、つねに本百姓経営の創出と維持を政策の基調にもつものである。
江戸時代中期以降、とくに周期的にまでなった各藩の藩政改革の直接原因は、つねに藩財政の窮乏の問題にあった。このことは、幕藩体制の中軸である本百姓経営を基底とする生産物地代原則の破綻(はたん)を意味する。本百姓経営は自然経済を原則にしながらも、生産力の発展により商品経済の展開の基礎になりうるものだった。この農民的商品経済の展開が、一方では藩財政の基礎である本百姓の経営の間に分解をもたらし、他方では藩財政における貨幣支出の膨張をもたらすものである。そして、その間にしだいに都市商人資本が介在してくる。要するに、江戸時代の各藩における藩政改革は、本百姓経営の創出・維持を基本的方向としながら、それをめぐる本百姓経営の分解、農民的商品経済の展開、都市商人資本との結合、ないしは側圧など、副次的なものを絡ませながら展開していく。したがって、改革の性格は、江戸時代の経済的・社会的発展に対応して各時期において異なってくる。
[泉 雅博]
初期
各藩における改革の方向は、本百姓経営の創出の方向を一義的に推進している場合が非常に多い。その方向は、信濃(しなの)国の譜代(ふだい)小藩諏訪(すわ)藩(高島藩)では、家臣団の統制形態を地方(じかた)支配(地方知行(ちぎょう))から俸禄(ほうろく)制(蔵米(くらまい)知行)へと切り替えていくなかで追求されていた。1675年(延宝3)閏(うるう)4月、第3代藩主諏訪忠晴(ただはる)は「郷中申渡(ごうじゅうもうしわたし)」8か条を公布しているが、その冒頭の条には、藩が給所百姓を大名直轄の百姓に切り替えていく理由が明記されていた。すなわち、給人による百姓の恣意(しい)的支配の抑止であり、小農維持を基調に置く藩政への転換が、そこで宣明された内容であった。この転換は、譜代小藩にとどまらず、初期の藩政改革の中心的な課題となっていた。外様(とざま)の大藩加賀金沢藩において、第3代藩主前田利常(としつね)の計らいのもと、1651年(慶安4)から56年(明暦2)にかけて施行された改作(かいさく)法も、その骨子は給人と百姓の分離、つまり百姓を藩主直属とすることによって、本百姓経営の創出・維持の方向を推進していこうとするものであった。
ところで、各藩ともその成立当初から、参勤交代、江戸在府などによる大量の貨幣支出によって、藩財政が強く圧迫され、絶えず財政の赤字に悩まされていた。藩政改革がつねに倹約令をもって始まるのも当然であり、三都の商人に借財することにより財政窮迫を乗り切っていたが、それは藩財政の破綻に結び付くものだった。新田開発の奨励、殖産興業の強行もすべて、直接的には財政窮乏への対応策の一環として意味をもっていた。
[泉 雅博]
中期
徳川幕藩体制の経済的基礎である本百姓経営における生産力発展によって、本百姓の手元に剰余部分が残るようになる。つまり、自然経済を徐々に商品経済にかえていく事態は、一方では領主が立脚する生産物地代原則、すなわち貢租という形では農民の商品生産の成果を吸収することを不可能にさせるとともに、藩財政の貨幣支出をさらに膨張させる。他方、このような農民的商品生産の展開は、新しく国民的市場形成の方向へと結実していく。このことは都市商人資本の進出を生み出してくる。したがって各藩は、このような事態に即応しうる藩体制の質的な転換を迫られる。元禄(げんろく)~享保(きょうほう)期(1688~1736)以降、各藩で行われる改革は、このような性格を帯びていた。だから、そこでは生産物地代原則の強化、すなわち貢租の増徴と相まって、商品経済の進展に順応する姿勢がとられていく。その中核的な政策が、産物改所(国産会所)の設置と藩専売制の実施であった。
藩専売は、各地の条件に応じた特産物を中心として取り組まれている。長州藩の紙・蝋(ろう)、阿波(あわ)徳島藩の藍(あい)、姫路藩の木綿・塩、土佐藩の紙、薩摩(さつま)藩の樟脳(しょうのう)・黒砂糖、信州上田藩の絹織物など多くの例を数えることができる。しかし、この専売政策も多くの場合、藩権力が豪農層や特権商人と癒着し、特産物の生産・流通過程に厳しい統制を加えたため、かえって一般農民層を窮乏に陥れるという結果を招き、藩経済を強化する方向には結び付かなかった。
また、中期の藩政改革において注意しなければならないもう一つの問題は、後進地帯における、いわゆる「名君賢宰」による藩政改革である。その典型としては、肥後熊本藩54万石を受け継いだ第6代細川重賢(しげかた)と家老堀勝名(かつな)との関係、陸奥(むつ)会津藩28万石の第5代松平容頌(かたのぶ)と家老田中玄宰(げんさい)との関係、そして出羽米沢(でわよねざわ)藩15万石の第10代上杉治憲(はるのり)(鷹山(ようざん))と、改革派を代表する竹俣当綱(たけまたまさつな)との関係をあげることができるだろう。商品経済の遅れている後進地帯のこれらの諸藩では、封建貢租の過重と先進地帯の商人資本の収奪とが相まって、本百姓経営の再生産さえ不可能にしていた。こうした事態にあっては、本百姓経営の再創出こそが重要な改革の方向となっていた。
[泉 雅博]
後期
中期の改革が、結果的には本百姓経営のいっそうの分解をもたらし、他方、藩権力の商人資本との結合は、藩政の腐敗をもたらした。こうした危機に即応して革新思想が成長してくるが、それが直接問題にしているのは、藩財政の窮迫と本百姓経営の解体である。
藩財政の窮迫は、商人資本と結んで腐敗する藩政への批判を呼び起こすとともに、幕藩体制の経済的基礎たる本百姓経営解体に対する危機意識を胎生する。これは前者と相まって商人資本排撃の意識へ転化し、下士改革派の藩政への進出をみていく。たとえば、長州藩の天保(てんぽう)改革は、1838年(天保9)に村田清風(せいふう)の指導のもとに開始されるが、清風は91石取の中士下層の出身にほかならなかった。
こうして天保期の諸藩における改革は、下士改革派による藩政実権の掌握下、本百姓経営の再創出と商人資本との絶縁という二つの方向を明確にした。
また、天保の改革には、もう一つの重要な問題があった。それは対外危機が、ようやく日本の周囲に迫ってきた事態に即応する問題である。すなわち、海防のことが重大な意味をもつようになり、軍備の改革に手がつけ始められた。こうした海防を焦点に据える藩政改革が本格化したのは、1853年(嘉永6)のペリー来航以後の対外的危機が深刻化した、安政(あんせい)期における各藩の改革であった。もはや、藩政改革は自藩のみの問題ではなく、きわめて直接的に全国的問題と結び付いていた。
開港以後、各藩とも財政窮乏が進み、ことに明治に入って廃藩置県に至る間に累積した各藩の債務は、幕末期を上回るものとなった。幕末期での藩財政窮乏は三都大商人、あるいは領内豪商からの借財の累積に示されている。藩末期の窮乏に加え、王政復古以後廃藩置県に至る4年間は、さらに物価騰貴が手伝って急速に藩債が累積した。ここに、比較的財政基盤の強固な藩でも、藩財政を維持するのには無理な状態に陥った。かくて廃藩置県に至り、藩は消滅した。
[泉 雅博]
『堀江英一著『藩政改革の研究』(1955・御茶の水書房)』▽『関順也著『藩政改革と明治維新』(1956・有斐閣)』▽『田中彰著『幕末の藩政改革』(1965・塙書房)』