長岡城(読み)ながおかじょう

日本の城がわかる事典 「長岡城」の解説

ながおかじょう【長岡城】

新潟県長岡市にあった平城(ひらじろ)。越後長岡藩の藩庁が置かれていた城。今日のJR長岡駅付近につくられた、西に信濃川、北に広大な湖沼の八丁沖(八町沖)に面した梯郭式の城郭であった。1616年(元和2)、徳川家康の六男で越後高田藩主松平忠輝が兄の将軍徳川秀忠から大坂の役での不始末を理由に改易されると、越後高田藩の属領となっていた旧蔵王藩領に堀直寄が8万石で入封され、蔵王堂城(長岡市)に入城した。蔵王堂城はたびたび水害を受けていたことから、直寄は信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たな城を築き、城下町を移そうとした。直寄は2年後の1618年(元和4)に越後村上藩に国替えとなり、代わって譜代大名の牧野忠成が6万2000石(のちに7万4000石)で入封して城の建設と城下町の整備を引き継いだ。完成した城は土塁を主体とした城郭で、本丸と二の丸、詰の丸を三の丸が囲むようにつくられ、本丸の角櫓(すみやぐら)の一つに「御三階」とよばれる建物がそびえる城であった。これが長岡城の始まりである。以降、明治維新まで牧野氏が藩主として同城を居城とした。長岡城が歴史の舞台に登場するのは、1868年(慶応4)の北越戦争(戊辰戦争の中の一つ)である。河井継之助家老に抜擢した越後長岡藩は奥羽越列藩同盟に加盟したことから新政府軍の攻撃を受け、一度占領された長岡城を奪い返したものの、新発田、新潟が攻略され、新政府軍の増援部隊が到着したことで形勢が変わり、再落城した。その後、1874年(明治7)ごろ、長岡城は旧藩主の牧野家の所有となり、城跡は旧藩士らによって遊覧場と呼ばれた公園として整備されたが、1897年(明治30)の北越鉄道(現JR)開通にともない、本丸の東部分が長岡駅となり、さらに第二次世界大戦の空襲と戦災後の復興により、長岡城の遺構はすべて失われてしまった。同市内の悠久山公園内に城郭風の模擬天守があるが、これは長岡城ではない。ただし、建物の石垣の一部に旧長岡城の石垣が使用されている。この模擬天守は内部が資料館になっており、河井継之助や長岡藩士の子として生まれた山本五十六の資料などが展示されている。JR信越本線・越後線・上越新幹線長岡駅下車(駅周辺がかつての城跡だが、遺構は残っていない)。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長岡城の言及

【越後国】より

…町人は府内,福島,春日山等から移し,町単位に特権を与え(町座制),また外来商人が高田で小売することや,村方の商業を禁じ,城下付近を通る商人は必ず城下を通過させ,外来商品は必ず問屋におろさせたので,高田町は繁栄を極めた。長岡城も新たに築かれた連郭式城郭で,町人は旧城地の蔵王から移したので特権を与え,城下町商業を保護して村方商業を禁じた。しかし村上,新発田では中世城郭と城下町を取り込んだので城も不整形をまぬかれず,とくに村上は町まで土居と堀で囲んだ戦国的構造をとった。…

※「長岡城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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