鷹巣城跡(読み)たかすじようあと

日本歴史地名大系 「鷹巣城跡」の解説

鷹巣城跡
たかすじようあと

[現在地名]福井市高須町

高須たかす山頂(四三八メートル)にあって、南北朝時代に新田義貞の部下畑時能が居城した城跡。義貞の死後三国湊みくにみなと(跡地は現坂井郡三国町)とともに最後の拠点として孤軍奮闘したが、暦応三年(一三四〇)一〇月、一時落城した。同年一一月日付得江頼員軍忠状(得江文書)に「十月十九日、押寄畑城致合戦、同廿一日打破一二木戸、焼払麓城」とみえるのがこれで、その後奪い返したが、翌年再び足利軍に攻撃される。

鷹巣城跡
たかのすじようあと

[現在地名]金沢市西市瀬町・瀬領町

西市瀬にしいちのせ町の南西瀬領せりよう町との境をなす丘陵地にある鷹巣山山頂に位置。鷹栖・高巣・鷹棲などとも記され、天正四年(一五七六)平野甚右衛門が設けたと伝える(加賀志徴)。甚右衛門は美濃浪人で、金沢御堂寄宿、同八年佐久間盛政による金沢御堂攻撃のとき、坂の途上で討死し、甚右衛門坂の名を残したとも(加能郷土辞彙)、同五年に越後へ去り、上杉謙信麾下に属したとも伝える(加賀志徴)。盛政は同八年金沢入城後、飛騨・越中方面への備えとして当城を修築、柘植喜左衛門を置き(同書)、また同一二年の末森すえもり(現押水町)の合戦後は前田利家が敦賀八矢を置いたという(改作所旧記)

鷹巣城跡
たかのすじようあと

[現在地名]美作町海田

えのき集落の北にある中世の山城遺構の本格的調査は行われていない。築城沿革については不明だが、「東作誌」では本丸跡が一〇間四方とあり、城主は江見次郎(異本に江見四郎元盛)という。「美作太平記」によれば、天正七年(一五七九)宇喜多氏の作東侵攻の際、江見市之丞と弟治郎が居城しており、江見氏らは林野はやしの(倉敷城)猪臥の矢櫃いぶしのやひつ城を捨てて当城に立籠った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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