野地村(読み)のじむら

日本歴史地名大系 「野地村」の解説

野地村
のじむら

[現在地名]土佐山田町さかえ町・たから町一―五丁目・あさひ町一―五丁目・百石ひやつこく町一―二丁目・東本ひがしほん町一―五丁目・西本にしほん町一―五丁目・秦山じんざん町一―三丁目・宮前みやまえ町など

山田やまだ村の北西に位置する近世初期開発の新田村。北はなべ山・まえ山の低い山が並び、東方は高くて畑地、西南方は低くて水田が開ける。中央台地には在郷町の山田野地町がある。「土佐州郡志」は「東限楠目村、西限西野地横堀、南限山田本村、北限植村須江南村、東西二十三町南北十二町」と記す。山田野地村とも記される(元禄地払帳)

近世の初めまで鏡野かがみの・山田野といわれた原野であったが、執政野中兼山が郷士による新田の開発を計画し、正保年間(一六四四―四八)に開墾されたという(南海之偉業)

野地村
のじむら

[現在地名]日原町池村いけむら

はた村の北、高津川支流の添谷そえだに川に沿って東に入った山間の村。つづらヶ峠を越えて南の日原村へ通じる。集落は野地の下のじのしも田屋たや権現ごんげん上杉うえすぎたきうえにある。慶長七年(一六〇二)の検地高一二六石余(「亀井家領郷村高帳」日原町史)。寛永一四年(一六三七)の高二九七石余、田二〇町九反余・畑二〇町五反余(「検地帳」同書)。延宝八年(一六八〇)の村鑑(「青原手鑑」日原町立歴史民俗資料館蔵)によると家数三六(本百姓二八・無縁七・寺一)・人数二一六、牛二一・馬二、紙漉舟二七、広地森二・稲荷森二・大元森二・荒神森五。

野地村
のじむら

[現在地名]尾鷲市野地町・中村なかむら

堀北ほりきた浦の南西にある。山麓に続く平地の最も高い所を占めていたので、宝永・安政の津波にも、この村のみ被害を免れた。慶長六年(一六〇一)検地帳(徳川林政史蔵)によれば、中井なかい村・ほり村・きた村とともに一つに検地され、「中井・堀・北・野路村」と一括で記されている。小字に中世祭礼の名残をとどめる野地殿のじどの参礼殿されど・野地矢倉町やぐらまちなどがある。江戸時代初期に尾鷲組に属する。寛政五年(一七九三)の大差出帳(尾鷲組大庄屋文書)に、家数六五、惣人数三七五、牛数四とあり、「田畑耕作少々ツツ仕、炭焼・小杣・荷持稼にて渡世仕申候。

野地村
のじむら

[現在地名]宿毛市橋上はしかみ町橋上

平野ひらの村の東北、松田まつだ川と京法きようほう川の合流点の下流にある村で、橋上郷の中心村。「土佐州郡志」は「橋上村・野地村(中略)本村与野地村纔以田疇界、故属于此、去高知三十二里、東西十町許南北八町許、二村戸凡八十、其土雑砂」と橋上村といっしょに扱う。「南路志」には二村ともみえない。

天正一七年(一五八九)の橋上村々地検帳にみえる下野地村・中越村・カラスデン村が江戸時代の野地村に含まれると思われる。三村の検地面積一三町四反余、小島出雲の給地と「吉奈城領」がその大半を占める。屋敷数一四うち居屋敷七。江戸時代の当村は、元禄地払帳では橋上村分を含めて高付されており、総地高三二六石余、本田高二六三石余のうち蔵入地一六四石余、他は渡辺八良太夫知行。

野地村
のじむら

[現在地名]椎葉村松尾まつお たけ八重はえ

岩屋戸いわやど村の北東の山腹に位置する。下松尾掛一八ヵ村の一つで、岩屋戸組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として野地とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑四反余(高三斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。寛延四年(一七五一)の下松尾村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(相良家文書)では「野地平山」に焼畑四六枚・四町一反四畝九歩があり、その年貢米五斗余・取銀三四匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(同文書)では高一一石二斗余。

野地村
のじむら

[現在地名]院内町野地

恵良えら川の支流温見ぬくみ川中流域に沿って続く谷間の山間部に位置し、東は温見村、南は西椎屋にししや村。小倉藩元和人畜改帳では高一四四石余、家数一二・人数四一(うち百姓七・牢人一・名子三)、牛六・馬一。百姓には小庄屋が一名含まれる。延宝八年(一六八〇)には田所組に所属し、人数六六(「人畜帳」庄家文書)。元禄豊前国高帳では高一四七石余。文化九年(一八一二)農民一揆では院内谷(原口組)一三ヵ村の一つとして蜂起に参加し、村民三名が逮捕された(小野家文書ほか)

野地村
のじむら

[現在地名]宿毛市野地

宿毛村の西北、ささ川流域の村で宿毛郷の一村。篠川が松田まつだ川と合流するところのやや上流、本城ほんじよう山の西方に野地、土佐・伊予境を流れてきた篠川が東南土佐側へ流れを変えた辺りに小川おがわの集落がある。「土佐州郡志」が「有長畠村、惣曰野地」という長畠ながはた(長畑)集落は前記二集落のほぼ中間の篠川沿いに位置。

天正一八年(一五九〇)の宿毛北分地検帳に村名がみえ、検地面積九町二反余、屋敷数一〇。屋敷のうちには竜光寺が含まれ、ほかに白王堂がある。三筆の竜光寺領以外はすべて「御直分」。

野地村
のじむら

[現在地名]窪川町野地

四万十しまんと川の左岸そらかわ村の西南下流にある。「仁井田郷談」(「南路志」所収)によると古くは仁井田にいだ井細川いさいがわ郷六村の一。天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳に「野地之村」とみえ、地積三〇町二反余、ヤシキ三〇筆ですべて窪川分。小村家地川いえじがわ村があり、家地川村分を除くと地積一四町一反余、ヤシキ二〇筆。江戸時代前期には土佐藩家老窪川山内氏の知行地であった。元禄地払帳では総地高一八二石余、うち本田高一三八石余、新田高四四石余。

野地村
のじむら

[現在地名]三ヶ日町都筑つづき

津々崎つづさき村の南に位置し、東は都筑村、西は猪鼻いのはな湖に臨む。しろにあった野地城(宮崎城ともいう)は天正一一年(一五八三)本多信勝らが奉行となって構築した平城で、延宝八年(一六八〇)まで存続し、その間、徳川家康・家光らが上洛の折に休憩所として使用したという。正保郷帳に村名がみえ、田方八三石余・畑方九〇石余、幕府領、ほかに長福寺(現廃寺)領一石余がある。

野地村
のうじむら

[現在地名]鳥越村野地

相滝あいだけ村の南西、どう川支流の野地川沿いに位置する。仮名付帳は「のじ」と訓ずる。「三宮古記」の正和元年(一三一二)の三社臨時祭馬上懸物の条に「河内庄内野地住人、藤三郎、藤四郎」とみえ、両人が負担すべき流鏑馬の的一〇〇枚のうち四〇枚が未作となったため、庁用酒をもってこれに充てたらしい。正保郷帳では高四四石余、田方一町余・畑方一町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四四石、免三ツ五歩、小物成は山役一五九匁・漆役一匁・炭役一匁(三箇国高物成帳)

野地村
のじむら

[現在地名]吾北村上八川下分かみやかわしもぶん 本郷ほんごう

上八川村の北東、上八川川北岸の山腹緩斜面に位置する。上八川村の枝村。天正一八年(一五九〇)の後山小川村地検帳に上八川内ノチ分として数筆みえるだけで、近世村落設定の際に改めて野地村が確立したと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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