日本大百科全書(ニッポニカ) 「諡」の意味・わかりやすい解説
諡
おくりな
旧中国や日本などにおいて身分ある人に死後贈られた名で、周代に始まるといわれる。諡号(しごう)ともいう。
[宮崎市定]
中国
王公貴族の家では、子孫が祖先のために宗廟(そうびょう)を設け、その中に木主(ぼくしゅ)を立て諡を書いて祀(まつ)ることは、仏教において法号を書いた位牌(いはい)を祀るごときものであった。諡にはその人の生前の行為により適当な文字を選ぶ。『史記正義』の首に唐の張守節の諡法解(しほうかい)を載せているが、それによると、文王、武王、成王などは徳の高い王者に贈られる美名であり、幽王、霊王などは徳の劣った王に対する醜名であって、平王、荘王などはその中間に位する。諸侯の場合は桓公(かんこう)、武侯のようにそれぞれの爵に従う。後世、大臣の諡は文公を最高とし、文正公がこれに次いだ。秦(しん)の始皇帝は、諡とは王者の死後に臣下が徳の高下を評議して定めるのであるから越権であるとし、諡の制を廃し、自身は最初であるから始皇帝、以後は二世皇帝、三世皇帝と代数でよんで万世まで伝えよと命じた。
しかし漢代になると、諡の制が復活し、以後南北朝を経て隋(ずい)代に至るまで、歴史上、天子の名は多く諡でよばれる。ただ漢の高祖だけは特別で、この場合廟号は太祖、諡は高皇帝なのであるが、そのいずれでもない高祖のよび方は、おそらく漢代の通称に従ったものであろう。
唐代以後、天子を高祖、太宗のように廟号でよぶことが普通となった。それは諡の文字が増してきたからで、高祖は神堯(しんぎょう)大聖大光孝皇帝であるが、粛宗(しゅくそう)は文明武徳大聖大宣孝皇帝と、しだいに増加して、いちいち諡号ではよびきれなくなったのである。漢代には各天子がそれぞれ固有の廟を独占するとは限らず、順次にその廟を子孫に譲るのが原則で、とくに功業の偉大な天子だけが、特別に個人の廟を守って変わらないことを認められた。しかるに後世、在位した天子はいずれも固有の廟を建てられ、廟号をもたない天子がないようになり、諡号のかわりに廟号をもって天子をよぶことが可能となったのである。この傾向はすでに北魏(ほくぎ)に始まっており、孝文帝はまた廟号の高祖でもよばれるが、唐に至って一般化し、宋(そう)まで続いた。
明(みん)に至って天子の呼び方に新しい傾向が生まれるが、それは年号による称(とな)え方である。明の太祖の諡号は実に21字に上るが、その最後の1字だけをとり高皇帝とよぶ称え方もあるが、これはあくまでも略称である。しかし、太祖という廟号は歴史上あまりに多すぎて混同されるおそれがある。ところが明(みん)から一世一元の制が始まったので、年号をとって洪武(こうぶ)帝というようによぶのがもっとも便利なため、明・清(しん)を通じて慣用されたが、ただしこれは正式の呼称ではない。
[宮崎市定]
日本
日本では、第一には代々の天皇の諡、第二には人臣(公卿(くぎょう)高官、武家、学者、僧侶(そうりょ))の諡がある。まず第一のほうは、古くは「何々宮の御宇(ぎょう)天皇」といったが、皇居が一定するころになると、たとえば文武(もんむ)天皇を天之真宗豊祖父天皇(あまのまむねとよおおじのすめらみこと)と称した類があり、これを和風諡号といった。しかし桓武(かんむ)天皇が平安京に遷都後は漢風諡号を用いることとなり、淡海三船(おうみのみふね)をして歴代天皇の諡を選ばしめたという。神武(じんむ)から光仁(こうにん)天皇までの諡号がこれである。ただしこの選定に関しては異説がある。桓武以後には漢風の諡号は少なく、御所の名をそのまま使ったもの、山陵の名を用いたもの、前帝号に後の字を加えたものなどが多く、明治・大正・昭和の3天皇は年号を諡号とした新例である。
第二のほう、すなわち人臣では、(1)太政(だいじょう)大臣になった人に諡号を賜ったのが例(藤原不比等(ふひと)の文忠公など)であるが、入道した人には諡はない。(2)武家では江戸時代には特定の大名(尾張(おわり)の徳川義直(よしなお)の敬公、水戸の徳川頼房(よりふさ)の威公、同光圀(みつくに)の義公、同斉昭(なりあき)の烈公など)に、(3)学者では儒者(林羅山(らざん)の文敏、木下順庵(じゅんあん)の恭靖(きょうせい)など)の漢風はいうまでもないが、国学者(本居宣長(もとおりのりなが)の秋津彦美豆桜根大人(あきつひこみつさくらねのうし)など)にも和風の諡があった。(4)僧侶として諡を賜ったのは古くからあり、大師号(最澄(さいちょう)の伝教(でんぎょう)大師、空海(くうかい)の弘法(こうぼう)大師など)はもっとも重いものであった。そのほか、菩薩(ぼさつ)号、国師号、禅師号、和尚(おしょう)号、上人(しょうにん)号などもあり、禅師、和尚、上人は私称も許されていた。
[小野信二]